第1条 なすべきをなす
ご承知のように、羽柴秀吉が主君織田信長の命によって中国攻めをしていたとき、主君信長が本能寺で明智光秀に討たれてしまいました。
そのとき、京都の周囲には信長麾下(きか)の武将がたくさんいましたが、秀吉は遠く京都をはなれ、しかも毛利という大敵と戦っていたのです。信長麾下の武将たちは各方面を攻めにいっていましたが、距離からいうと一番遠くにいたうちの一人が秀吉でした。
近くには、信長の息子信孝が大坂に、同じく信雄が伊勢にいました。光秀は憎い親のかたきですから、息子がまずだれよりも先にかけつけて、光秀と一戦交えるというようなことをしなければなりません。しかし、息子たちはそうせずに、いわば形勢を展望していたのです。その当時の常識としては、いわゆる“不具倶戴天の父のかたき”ということがあります。つまり、父のかたきとはともに天をいただかない、ともに生きてはいない、ということです。一戦交えたら勝つか負けるかわかりません。しかし勝つか負けるかということよりも、ともに生きているという状態にはしておかない、ということです。これがその当時としてのいわば道徳のひとつであったと思うのです。
一方、秀吉はどうであったかというと、秀吉は一番遠くにいて、てごわい敵と戦争していましたが信長が討たれたと知ると直ちに敵と和睦し、そしてとるものもとりあえず引き返して、不倶戴天の主君のかたきを見事に討ちました。これは当時の道徳に素直に従った姿であるともいえるのではないでしょうか。
天下をとろうなどという野心が先に立ったのでは、なかなかあのようにうまくはいかなかったでしょう。自己の利害ということを超越し、ただひたすらになすべきをなした、やらねばならないことをやった、ということだと思います。そして、そういう私心をはなれた態度、行動をとるということは、やはり素直な心にならなければなかなか出てこないのではないかと思うのです。
このような点から考えてみても、素直な心の偉大さというものがよくわかるのではないでしょうか。もちろん、当時と今日とでは、考え方も道徳のようなものもずいぶんちがいますからこの例はそのまま今日にあてはまるものではないでしょう。ただ大切なことは、なすべきことは私心をはなれて断固として行なう、ということです。ときには、自分の命をかけてでもやりとげるということです。
第2条 思い通りになる
何でも自分の思い通りにすることができるようになる
何事によらず、物事を自分の思う通りにやりたいというのが、お互い人間の一面の姿ではないかと思います。たしかに、人でも物でも、すべてが自分の思う通りに動いていくとしたら、一面これほど愉快なことはないともいえるかもしれません。
けれども実際の世の中というものは、どちらかというと、人でも物でもなかなか自分の思う通りには動いてくれない場合が多いのではないでしょうか。それで相手と争ったり、みずからいろいろ思い悩んだりするなど、好ましくない姿に結びつく場合も少なくないように思われます。
しかしお互いが素直な心になったならば、そういう好ましくない姿は生まれてこないのではないかと思います。というのは、素直な心になれば、すべてがいわば自分の思い通りになると思われるからです。自分の思い通りになるというのは、思い通りになるように、自分から順応していくからです。
すなわち素直な心が高まってくれば、そのなすところは融通無碍となり、いわば障害はなくなってしまうと思われます。それはなぜかというと、できないことはやらないようになるからです。こういうといささか消極的になりますが、逆に積極的にいうと、できないと思われるようなことでもよき考えを生み出してやりぬくという知恵がわいてくると思うのです。
つまりこれは非常にむつかしいけれども、こうやればできるということがしだいにわかってくると思うのです。それで、非常にむつかしいことでも、それをのりこえ、道をひらいてゆくことができると思います。けれどもその反面においては、これは絶対に不可能だということはもう始めからやらない、ということにもなると思います。だから素直な心が高まってくれば、これは今の段階ではムリであるということと、これはやればできるということと、その両方が同時にわかってくるのでないかと思うのです。
だから、素直な心になったならば、自分の行く手に高い山がたちふさがったような場合でも、これをムリヤリつきぬけて通ろうというようには考えずに、たとえば山のふもとを回り道して通っていけばよい、というように考えるだろうと思うのです。そしてそのようにするなら、そこにムリもおこらず、争いとか悩みをおこすこともなく、その山を越すこともできるのではないかと思うのです。
第3条 こだわらない
お互いが素直な心になったならば、人からなにをいわれようと、またなにごとがおころうと、みずからの心にわだかまりやこだわりが残るということは比較的少なくなるのではないかと思います。
たとえば、よく冬の寒い日などに、子どもたちが窓ガラスに息を吹きかけて遊んでいます。子どもたちがふっと息を吹きかけると、すき通った窓ガラスに白いくもりができます。白いくもりができると、向こう側がよく見えなくなります。けれども、間もなくそのくもりはうすくなって、また元のすき通ったガラスにもどります。そこで子どもたちはもう一度息を吹きかけます。けれども、再びくもった窓ガラスは、すぐにまた元通りになるのです。これは何度くり返しても同じことです。
素直な心になったならば、ちょうどこの窓ガラスと同じように、何かこだわりやわだかまりを持つようなことが身にふりかかったとしても、それがいつまでも心の中に残るようなことは少ないであろうと思うのです。つまり、ごく短い間には、そのことが気にかかるかもしれませんが、すぐにそれは窓ガラスの白いくもりと同じように、自然に消えていくであろうと思います。
というのは、素直な心になるということは、私心なく真理というか正しいことにしたがうというところに基本の態度があり、そこに一つの大きな安心感がありますから、こまかいことにくよくよせず、つねに前向きにものを考えるという姿勢が保たれているからではないでしょうか。
したがって、こだわりはこだわりとならず、わだかまりもわだかまりとはならない、というような姿も生まれてくるのではないかと思われます。
第4条 日に新た
幕末の頃、土佐の檜垣清治という人が、その頃土佐で流行していた大刀を新調し、江戸から帰ってきた坂本龍馬に見せたところ、龍馬は、「きさまはまだそんなものを差しているのか。おれのを見ろ」といって、やさしいつくりの刀を見せました。そして、「大砲や鉄砲の世の中に、そんな大刀は無用の長物だよ」といいました。
清治は、「なるほど」と気がつきました。そこで、龍馬のと同様の刀をこしらえて、その次に帰ってきたとき見せました。すると龍馬は、「この間は、あの刀でたくさんだといったが、もう刀などはいらんよ」といいながら、ピストルをとり出して見せたというのです。
またその次に帰ったときには、「今の時勢では、人間は武術だけではいけない。学問をしなければならない。古今の歴史を読みたまえ」とすすめたということです。
さらにその次に会ったときには、「おもしろいものがあるぞ。万国公法といって、文明国共通の法律だ。おれは今それを研究しているのだ」と語ったそうです。
清治は、「そのように龍馬にはいつも先を越されて実に残念だった」と人に語ったといいますが、坂本龍馬という人はいつも先ざきを見ていたから、そういう姿も出てきたので はないかと思われます。そしてそういう、現状にとらわれない、たえず先を見るというような姿は、やはり素直な心が働いているところから生まれてくるものではないでしょうか。
素直な心になれば、現状にとらわれるということがなくなって、つねに何が正しいか、何がのぞましいかということがおのずと考えられ、それがスムーズに見きわめられてゆくようにもなるでしょう。坂本龍馬は傑物であったといわれますが、結局彼は当時としては非常に素直な心の持ち主であったのではないでしょうか。素直な心の持ち主であったがために、つねに世の流れの先を見越して、次つぎと新しい考え方を生み出し、よりのぞましい行き方をとることもできたのではないかと思います。
そういうような点から考えても、素直な心というものは、お互い人間の共同生活の日に新たな進歩向上をもたらすために、きわめて重要で大切な心の持ち方ではないかと思います。
第5条 禍を転じて福となす
お互いがそれぞれの仕事をすすめていく上にも、また人生の歩みの上においても、ときに非常な困難、危機ともいうべき局面にぶつかることもあろうと思います。そして、そうした難局に直面した場合、人によってはそれに負けてしまい、ゆきづまってしまうような姿もあるでしょうが、その反対に、それを一つのチャンスとしてとらえ、非常な努力を注いで取り組んだ結果、みごとその難局をのりこえるばかりでなく、むしろよりよき発展をとげた、というような姿もあるのではないでしょうか。
後者のような姿は、いわゆる“禍を転じて福となす”といった姿ではないかと考えられますが、お互いが素直な心になったならば、この後者の姿を実際にあらわすこともできるようになるのではないかと思います。すなわち、素直な心の効用の一つとして、“禍を転じて福となす”ということもあげられると思うのです。
それではなぜ、素直な心になれば“禍を転じて福となす”ことができるのでしょうか。これについては、いろいろな見方、考え方ができると思いますが、たとえば次のようなことも考えられるのではないかと思います。
すなわち、いま仮に世の中が不況でお客さんが減ってしまったうどん屋さんがあったとします。このうどん屋さんとしては、いわば商売上の危機を迎えたわけです。しかし、このうどん屋さんに素直な心が働いていたならば、お客が少なくなったからといって、少しもあわてないだろうと思います。
というのは、素直な心のうどん屋さんであれば、“この不況は自分の力を存分にふるうチャンスだ。自分の本当の勉強ができるときだ”というように考えるのではないか思うからです。したがってそのうどん屋さんは、従来の自分の商売のやり方とか考え方を、私心なく、第三者の立場に立ってみつめ、考え直すと思います。今までのやり方を徹底的に反省してみるわけです。
このようにして、そのうどん屋さんが素直な心で対処してゆくならば、不況に際してもゆきづまることなく、かえってお客が増えて繁盛してきた、というような姿を生み出すこともできるようになるわけです。
第6条 つつしむ
江戸の昔、世間で鶉(うずら)を飼うことがはやったことがありました。身分の高い家々では、互いによい鶉をと争い求めたので、その値段も非常に高くなったということです。老中阿部豊後守忠秋も、その頃鶉を好んで、つねにそばにカゴをおいて、鳴き声を楽しんでいました。
そのことをある大名がきいて、高価な鶉を買って、あるご典医を通し「ちか頃珍しい鶉を手に入れましたから、お慰みに進上します」といわせました。これをきいた豊後守は、なにも答えずに、近習の者を呼び、「鶉カゴの口を庭の方へ向けよ」といいつけ、さらに「カゴの口をみな開けよ」と命じました。
それで近習の者がそのようにすると豊後守の飼っていた鶉はみんカゴを出て飛び去りました。ご典医はそれを見ていぶかしく思い、「よくお手馴らしてあるので、また帰ってくるのでございますか」とたずねました。すると豊後守は答えていいました。
「そうではござらぬ。きょうはじめて放ったのでござる。それがしのような、上のご威光によって、人にとやかくいわれる身で、物など好んではならないということでござる。それがしがこの頃ふと鶉を好んだならば、もうそのように噂する人もでてくる。これからはふっつりと思い切って、鶉好きはやめましょうぞ」
人間だれしも、自分のすきなことはやめにくいものです。しかし豊後守は、それが世の風俗にも好ましくない影響を及ぼし、またその権勢を自分のために利用するようなことは、日頃からかたくつつしんでいたので、あえてそのような処置をとったのだということです。
贈物を受けとったとなると、とかく公正を欠いた判断にも結びつきかねません。たとえ公正であっても不公正な印象を残します。だから公の立場にある者としては、きびしくつつしみ、いましめなければならないのは当然でしょう。しかしその当然のことを当然として、贈物を受け取らないばかりか、自分の飼っている鶉まであえてとき放ったということは、これはなかなかできにくいことではないかと思われます。
そのできにくいことをきっぱりと行ったところに、豊後守の素直さというものが感じられます。つまり、豊後守は、自分の個人的な感情とか欲望などによって事を判断したのでなく、公の立場にある者として何を考えるべきか、いかにあるべきか、というような深い考えに立って事を判断したのではないかと思うのです。
第7条 和やかな姿
お互いが素直な心になったならば、いらざる対立や争い、いがみあいなどはおこりにくくなって、おおむね、和やかな明るい姿を保っていくことができるのではないかと思います。というのは、互いにいがみあったり、争いあったりすることの原因の多くは、お互いが素直な心になることによって、おのずととり除かれると思われるからです。
たとえば、しばしばお互い人間の争いの原因となるものの一つに、利害の対立ということがあります。利害の対立というものは、お互いが自分の利益をぜひとも守ろう、損を絶対にしないようにしよう、などというように利害にとらわれるところからおこる姿だといえると思いますが、そういうところから、互いの争いとか衝突が生まれてくる場合がきわめて多いわけです。
それからまた、感情のゆきちがいといったことも争いに結びつくでしょう。口のきき方がどうも気に入らないとか、自分を軽視したからけしからんとか、無視したから許せないとか、いわれなき非難中傷をされたとか、そういったことがしばしば原因となって、互いのいがみあい、争いがおこる場合も少なくないのではないでしょうか。
けれども、お互いが素直な心になったならば、そういう姿はほとんどおこらないようになるのではないかと思います。というのは、素直な心になれば、たとえば自分の利害にとらわれるという姿も、それ自体がなくなっていくのではないかと思われるからです。 といっても、自分の利害を全く考えないというのではありません。それは当然考えるけれども、同時にまた相手の利害も十分考慮しあって、互いにいわば談笑のうちに事をすすめていく、というわけです。だから、お互いに、相手のことも考えずに自分の利害だけにとらわれて争いあうというような姿は、おのずとおこりにくくなってゆくのではないかと思われるのです。
もちろん、お互い人間が争うのは、こうした利害の対立、感情のゆきちがいといったことだけが原因ではないと思います。今日ではとくに、いわゆる主義主張、思想などの上での対立、争いというものがみられるようになってきました。そしてそれが、単なる個々人の間の争いだけにとどまらず、団体と団体の争い、ひいては国家間の紛争、戦争といったものにまで発展しかねないような状況も一面においてみられるようです。これはまことに憂慮すべき姿であるともいえましょう。
しかし、お互いが素直な心になったならば、こうした形の争いというものも、あまりおこらないようになっていくでしょう。というのは素直な心になれば、単に一つだけの物の見方考え方にとどまらす、さまざまな物の見方、考え方があることがわかりその良さをみとめ、とり入れようとするようになると思うからです。
第8条 正邪の区別
お互いが素直な心になったならば、いわゆる正邪の区別というものがはっきりしてくるのではないかと思います。というのは、素直な心になれば、互いに利害や感情にとらわれることが少なくなり、いってみれば冷静に客観的に物事の正邪を判定することができるようになると思われるからです。
お互い人間というものは、ややもすると、自分の立場であるとか、利害、感情といったものにとらわれて物事の是非を考え、判断するという姿に陥りかねません。たとえば仮に、人に親切にすることの是非を問われれば、だれしも是と答えるでしょう。
けれども、それでは日頃から仲のわるい相手に対しても親切にするかというと、それはちょっとできにくい。むしろ不親切にしているというのがいわばお互いの陥りやすい姿ではないでしょうか。
そしてそれがお互いの陥りやすい姿であるだけに、ふつうはその非を指摘する人はほとんどいないのではないかと思われます。つまり、正邪の区別がアイマイにされがちになってしまうわけです。
けれどもお互いが素直な心になったならば、人に親切にすることが正しいなら、仲のわるい人に対しても同様に親切にすることが正しい、という判断が生まれ、それが実際の姿にもあらわれてくるのではないかと思います。
すなわち、仲のよしあしといった、いわば個人的な感情などにとらわれることなく、正しいことは正しい、と素直に判断できるわけです。そして同時に、正しくないことは正しくないこと、不正なことは不正なこと、というように正しく判断できるわけです。
世のお互いがともどもに素直な心というものを養い高めていったならば、世の中のあらゆる面において、正邪の区別がはっきりし、それぞれが責任ある行動をとるようになるだろうと思います。そうすれば、お互いに、なすべきことは大いに行い、なすべきでないことは極力行わないといったような姿もおし進められ、共同生活の営みというものがきわめて高い秩序のもとに、好ましい姿において進み、日に新たに向上していくことにもなるのではないでしょうか。
第9条 適材適所の実現
価値あるものはその価値を正しくみとめることのできる心である
お互いが素直な心になれば、一人ひとりが自分の持ち味を十二分に発揮できるような適材適所の実現が進められるようになる
この世の中にあるすべての物、そしてお互い人間の一人ひとりすべてが、それぞれにそれなりの特質なり持ち味というものを持っているわけですが、そうした万物万人の持ち味というものが十二分に発揮されていったならば、そこから、お互い人間の共同生活の向上、物心一如の真の繁栄というものも逐次もたらされてくるのではないかと思います。
すなわち、それぞれの人、それぞれの物がよりよく生かされていくところから、物質面も精神面もともどもにゆたかになって、お互いの幸せというものも歩一歩高められて行くのではないか思うのです。
けれども、現実の世の中の姿、お互いの姿というものをみると、そういう好ましい面が必ずしもつねに十分にあらわれているとはいえないようです。たとえば、それぞれの人の特質なり持ち味というものにしても、もちろんそれを十二分に生かして活躍しているという人もいるでしょうが、必ずしもそうではないという人も少なくないと思います。
いわゆる適材適所ということばは、それぞれの人がその持ち味、能力というものを十二分に発揮できる仕事について活躍するというようなことを意味しているのではないかと思 いますが、その適材適所ということにしても、実際にはなかなか実現していない場合が少なくないようです。
たとえば、今ここに非常に見識も高く、能力もあるすぐれた人がいて、その人がグループのリーダーとして一番ふさわしいという場合があったとします。その人は、いってみればリーダーとして最適任であって、リーダーとして立ったならばまさに適材適所が実現することになるわけです。
しかしながらこの場合に、もしもその人がグループの最年少だったとしたならばどうでしょうか。なかなかスムーズにりーダーとしての立場に立ちにくい、ということにもなりかねないのではないでしょうか。つまりリーダーとしてふさわしい特性なり素質をもっていても、その特性が生かされにくく、適材適所が実現しにくいわけです。
けれども、リーダーには年長者がふさわしいという考え方は、もともと年長者がリーダにふさわしい見識とか能力を培っていたというような事実が先にあったために、年長者こそリーダーにふさわしいといった考え方が生まれてきたのではないでしょうか。
もしそうであるとするならば、たとえ年少者であってもその人がリーダーにふさわしい特性なり資質をもち、またこれを大いに伸ばしてやっていけるという場合には、その人はリーダーとして立つのが当然である、ということにもなるでしょう。
そういうことを考えてみると、やはり年少者であるからという理由だけでリーダーに立ちにくいという姿があるとするならば、それはいってみればお互いが何かにとらわれたところからもたらされている姿であって、もしもお互いが素直な心になったならば、そういう姿はしだいになくなっていくのではないかと思われます。
第10条 病気が少なくなる
お互いが素直な心になったならば、病気になりにくくなると思います。というのは、一つには素直な心になれば物事の実相がわかりますから、いらざることに心を悩ませたり、またいたずらに心配したり不安感におそわれれるというようなことが少なくなるからです。
今日、お互いの多くは何らかの病気にかかったり、故障を生じていたりして、そのために日々苦しんだり、不便な思いをしている場合が少なくないと思います。ところが、それらの病気や故障の中には、いわゆる精神面からきているものが相当に多いということです。
つまり、仕事上の問題や対人関係の不調からくるストレスというものがつみ重なって、胃腸などの内蔵を痛めたり、また人生上の悩みからくるノイローゼになって頭痛に苦しんだりというように、心の面、精神面からくる病気というものがかなり多いわけです。
そういうことを考えてみますと、お互いが素直な心を養い高めていくことによって、それらの病気にかかるということをずいぶん少なくしてゆけるのではないかと思います。お互いが素直な心になったならば、たとえどのような問題がおころうと、また自分がどうい う立場におかれようと、そのことによっていたずらに心を悩ませるというようなことはなくなるだろうと思うからです。
なぜそのように悩まなくなるかといいますと、すでにくり返しのべておりますように、素直な心になれば物事の実相もわかり、物の道理もわかります。だからたとえば自分の立場のみを中心にして物事を考えるとか、自分の感情や利害にとらわれて事を判断するようなことがありません。しかもその心が高まっていけば、融通無碍の働きをすることもできるわけです。
したがって、自分の感情が満たされないために悩むとか、自分の利益が損なわれるから悩むとか、物事がうまくいかないから悩むなどといった姿は、あまりおこってこなくなるでしょう。そしてつねに心は安らかに安定するだろうと思います。だから、心の面、精神面からくる病気というものは、お互いが素直な心を高めていくことによって、しだいに少なくしてゆくことができるのではないかと思われます。
そうして、万が一、病気にかかってしまった場合でも、素直な心になれば、自分の病状がある程度自分でつかめるようになるでしょう。だから、医者の指示もよくわかって、その治療の効果も高めるよう協力していくということもスムーズにできるのではないかと思います。