第1条 つよく願う
お互いが素直な心を養おうとする場合には、やはりなんといってもまずはじめに、素直な心になりたい、というつよい願いをもつことが必要だと思います。もちろん、素直な心になればなかなかよさそうだから、素直な心になれればいいなあ、と思うけれでも、少しは素直な心に近づくかもしれません。けれども、やはりその程度では十分に素直な心を高めていくことはむつかしいでしょう。
やはり何事においても、よりよきものを生み出そうとか、事をなそうといった場合には、そこにそれなりの志というものをしっかりもって、つよく願い、のぞむことが必要だと思います。
一枚の絵を描くにしても、まあ適当に描けばそれでよいなどと考えていたのでは、ある程度のものはできても、それほどすぐれた作品は生まれないでしょう。それに対して、自分は一生のうちでも最高の作品を描き上げるのだ、ぜひ快心の作をものにしたい、といったつよい願いをもっていたならば、やはりそれにふさわしいものが生まれてきやすいでしょう。
もちろん、つよい願いをもつといっても、心の中にそういうものをもっておりさえすればよい、それでよい結果が自然に生まれてくる、というわけにはいかないだろうと思います。やはりつよい願いを心にもったならば、それは実際に自分の態度や行動となってあらわれてくると思います。いいかえれば、その願いを実現するために身も心もそれに打ち込むようになってくると思うのです。
だから、会心の作をものにしたいと願うのであれば、たとえば自分の腕を徹底的に磨き直すというようなこともするでしょう。また、他の多くのすぐれた作品を見て真剣に学ぶことにもつとめるでしょう。
そして自分なりに日夜いろいろと構想をねったり、さまざまな工夫をこらしたりもするでしょう。さらには、雑念をはなれるとか、いわば寝食を忘れて作品の製作に没頭するというような真剣な態度も出てくるのではないかと思います。そういう打ち込んだ態度を保っていくところから、はじめて魂のこもった立派な作品も実際に生まれてくるのではないでしょうか。
こういうことは、単に絵を描く場合だけに限らず、他の多くの場合にもあてはまるのではないかと思いますが、お互いが素直な心になろうとする場合においても、やはりまず素直な心になりたい、というつよい願いをもつことからはじめなければならないと思うのです。
もちろん、そういうつよい願いというものは、はじめの一時期だけもっていればいいというものではありません。つまり、一度だけつよく願ったから、あとはひとりでに素直な心に近づいていく、というわけではないと思います。やはりつねにというか、たえずというか忘れることなくその願いをもちつづけてゆくことが必要だと思います。
第2条 自己観照
“我執”ということばがありますが、お互い人間は、意識しないまでも、つい自分自身にとらわれるというか、自分で自分がしていることを正しく評価できないことが多いのではないでしょうか。
もちろん、人はよく「自分のことは自分が一番知っている」といいます。たしかに自分の思いは、他人にはうかがいしれない場合が多いのですから、他人よりも自分のほうがよく知っているはずです。しかし、自分の考えや行ないが果たして独善でなく、道理にかなっているのかどうか、社会的に正しいことかどうか、人情の機微に適したものかどうかを評価する段になると、これはまた別だと思うのです。
むしろその点については、他人のほうがよく知っている場合が少なくないでしょう。それはやはり、人間というものは、どうしても知らず知らずのうちに自分中心に、あるいは自己本位にものごとを考えがちになって、他人からみたらずいぶんおかしいことでも、一生懸命に考え、それを正しいと信じている場合が多いからではないでしょうか。
もしそのように、自分自身にとらわれた自己本位の考え方を押し通そうとしたら、やはり物事が円滑に運ばないでしょう。他人が傷つくか、あるいは自分が傷つくかするでしょうし、ましてその考えが社会正義なり共同の幸せに反することならば、やがては自分の身を滅ぼしてしまうことにもなりかねません。しかもその人が、社会の指導的な地位に立っていたならば、単に自分を滅ぼすだけでなく、指導される人びと全体を誤らせてしまうことにもなってきます。
かつてのヒットラーやムッソリー二、あるいは日本の軍部指導者のなかにも、こうした傾向が一部あったことは否定できないと思うのです。つまりそういう人たちは、自分の考えを絶対に正しいと信じこんで、知らず知らずのうちに自己本位の勝手な考えなり行動に陥っていることに気づかなかった。それが自分だけでなく周囲の多くの人びと、あるいは国全体を迷わせ、そこに多大の損失と不幸を招くことになってしまったのだといえましょう。
こうした経験は、お互いに多少とももっているのではないかと思いますが、それではどうすれば自分自身にとらわれない素直な心になれるのかといえば、その一つとして「自己観照」を心がけたらどうかと思います。これは、いわば自分の心をいったん外に出して、その出した心で自分自身を眺め返してみる、つまり客観的に自分で自分を観察することを心がけたらどうかということです。
昔から“山に入る者は山を見ず”とか言いますが、山の本当の姿は、あまり山の中に入りすぎるとわからなくなってしまいます。山の中にはいろいろな草木もあれば、石ころもある。それらも山の一部ですが、しかしそれだけが山の姿ではありません。山の全貌を正しく知るには、やはりいったん山から離れて、外から山を見るということもしなければならないと思うのです。
第3条 日々の反省
私たちが、何か物事を行ない、それに成功していくために大切なことの一つとして、反省ということがあげられると思います。こういうことをしてみたいと考えて、それをやってみる。そうすると、うまくいくこともあるでしょうし、そうでないときもあると思います。うまくいったらうまくいったで、どうしてうまくいったかを考えてみる。うまくいかなければ、どこにうまくいかない原因があったかを考えてみる。
そのような反省をしては、その結果を次のときに生かして、失敗をより少なくし、よりうまくいくようにしていくことが大切だと思います。そういう反省なしに、ただ何となくやっていたのでは、同じ失敗をくり返したり、なかなかうまくいかないということになると思うのです。
昔の中国の名言に「治にいて乱を忘れず」ということばがあります。これはつまり、おだやかで平和な満ち足りた状態にあるからといって安心しきって油断してはいけない、いつまた情勢が変わって危機に陥るかもしれないのだから、つねにそれに備えて心をひきしめておくことが肝要である、というようなことをいっているのだと思います。
たしかに、そういった油断のない態度、心がけというものを保っていくならば、個人としてもまた団体としても国家としても、つねにあぶな気のない姿を保持していくこともできるのではないかと思います。そして、こういう名言がどうして生まれたのかを考えてみますと、考え方はいろいろあるでしょうが、一つにはやはり過去をふり返って十分に反省をしたところから生まれてきたとも考えられると思います。
すなわち、個人でも団体でも、国家の場合でも、事がおこってゆきづまるとか、危機に直面してそれに打ち負かされてしまったとかいうような姿をくり返しているわけです。そこで、なぜそういう姿がおこるのかを深く反省したところ、しばらく好調な姿が続いたのでそれになれてしまい、なすべき努力を怠り、必要な心くばりを忘れてしまっていた。その結果、時代の流れ、情勢の変化に相応ずることができないほど、みずからの力が弱まっていた。それでゆきづまってしまったのだ、というようなことがわかったわけでしょう。
そういう反省から、「治にいて乱を忘れず」という名言も生まれてきたのではないかと思いますが、そのように反省というものは、みずからのあやまちを防ぎ、よりよき明日を迎えるためにきわめて大切なことだと思うのです。だからそういう反省は、事がおこってからするよりも、いわば日常一つひとつの事柄について反省を加えるということが必要ではないかと思います。
したがって、私たちが素直な心を養い高めていこうという場合も、やはり日々自分を反省してみることが大切ではないでしょうか。「今日一日自分は素直な心で人に接し、物事をやっただろうか。あの時自分は、腹が立っていて、ついその怒りにとらわれていたのではないだろうか。ああいう意見をいったけれども、あの考えは少しかたよっていなかっただろうか」そういったことをいろいろ反省してみて、次の時には、なるべくそうならないように心がけていくわけです。
第4条 つねに唱えあう
お互いが素直な心の大切さをよく認識し、素直な心になりたいとつよく願いつつ日々の生活を営んでいくところから、しだいに素直な心が養われていくのではないかと思いますが、実際には往々にして日々の忙しさにとりまぎれ、素直な心になることをつい忘れてしまうということもあると思われます。
そこで、お互いが素直な心になるということを忘れてしまうことのないように、折にふれ、ときに応じて、お互いに“素直な心になりましょう”とか“素直な心になって”ということを、いわば一つの合言葉のように口に出して唱えあうということが必要ではないかと思います。
たとえば、朝おきてお互いが顔を合わせたならば、“おはようございます。きょうも素直な心で過ごしましょう”とあいさつをかわす。仕事の打ち合わせをする前には、“それでは素直な心で検討しあいましょう”とみんなで唱えてから話を始める。また、どういう話をする場合でも“素直に考えたならば、こういうことになるのではないでしょうか”とか、“素直に見て、このようにいえるでしょう”とかいうように、たえず互いに素直ということを口に出しつつ話を進める。
こういうように、いってみれば寝てもさめても、いても立っても、日常のすべての会話、行動の中において、たえず素直になるということを念頭におき、それを口に出して唱えるわけです。仏教においては、“念仏三昧”というようなこともいうそうですが、この場合はいわば“素直三昧”というようなことにもなるでしょう。しかもそれは、自分一人でも素直三昧をすると同時に、互いにそういう姿を生み出していくわけです。
そういう素直三昧というような姿をお互いがともどもにあらわしてゆくならば、何を考えるにも素直に、何をするにも素直に、というようにおのずと心がけあってゆくようにもなるでしょうから、そこからしだいに、お互いともどもに素直な心で物事を考え、判断するような姿に近づいていくこともできるのではないでしょうか。
もちろん、ただそういうように口に出して唱えれば、それで素直な心になれるのかというと、必ずしもそうではないと思います。口に出すということは、それを忘れずに心がけてゆくためであって、そういう形にともなう実のある内容がなければならないと思います。その実のある内容をそなえていくためには、やはり素直な心の意義というものを十二分に理解して、素直な心そのものを養っていくことをたえず心がけていくことが大切だと思うのです。
そのようにして、実のある内容をともないつつ、しかもたえず形にあらわすというか、お互いの合言葉としてつねに口に出して素直になるということを唱えるようにしていくならば、お互いに素直な心になるということを忘れることもなく、たえずそれを心がけてゆくことができるでしょう。だから、そういうことも、お互いが素直な心を実際に養っていくために大切なことの一つになってくるのではないかと思うのです。
第5条 自然と親しむ
お互いが素直な心を養っていくために大切なことの一つに、自然に親しむというか、大自然のさまざまな営み、姿というものにふれるということもあるのではないでしょうか。自然の営みというものには、私心もなければ、とらわれもないと思います。いってみれば、文字通り素直に物事が運び、素直な形でいっさいが推移していると思うのです。したがって、そういう大自然の営みの中に身をおいて、静かに自然の形を見、その動きを観察していくならば、しだいしだいに素直な心というものを肌で理解し、それをみずからの内に養っていくということもできるようになると思うのです。
たとえば、大自然の中に遊ぶ鳥や獣の姿を見つめてみるのもいいでしょう。鳥たちの無心の動作、そして獣たちの何気ない日々の行動を見るならば、そこに素直な心を養う上での何らかのヒントもつかめるのではないでしょうか。
親子の間の姿にしても、動物たちの場合は、人間とはまたちがった愛情の細やかなところがあるともいわれます。人間の場合は、子すて子殺しといったようにむしろ今日では一部でいろいろと問題もおこりがちとなっていますが、動物の場合はおしなべて、自然のままに素直に愛情を発露させるといった姿がみられるのではないかと思われます。
したがって、そういった自然な動物の姿にふれていくところから、素直な心を養っていく上でのなんらかの参考となるものも得られるのではないかと思うのです。それは、もろろん動物のみに限らず、自然の山野にあふれる植物、さらには野や山や川や海などのあらゆる大自然の面についてもいえることではないかと思います。そういった自然の姿というものは、やはり私心なく、なんらのとらわれもなく、自然のままに、素直に日をおくっているわけです。
したがって、そういった自然のあらゆる面につねにふれていくことによって、とらわれのない、素直な心を養っていく上でのいろいろなヒントを得ることもできやすくなっていくのではないでしょうか。いってみれば、ただ一輪の草花にしても、私心なく、自然に、素直に花を咲かせているわけです。
そういった花の姿をみて、もちろん何も感じないという人もいるでしょうが、しかし、素直な心になりたいというつよい願いをもっている人の場合には、あるいはそこに何らかの偉大なヒントを見出すかもしれないと思うのです。
そういうことを考えてみると、お互いが素直な心を養っていくための一つの実践として、このように大自然の営み、自然の姿というものにふれて、その素直さに学んでいくということも大切だと思います。
第6条 先人に学ぶ
お互いが素直な心を養っていくために大切なことの一つに、幾多先人の尊い教え、貴重な考えといったものを学ぶということもあるのではないでしょうか。すなわち、今日、われわれは、幸いなことに過去の偉大な人びとの考えや行ないというものを、書物等によって知ることができます。そしてそういった先人の考えや行ないの中には、素直な心のあらわれと考えられるもの、素直な心そのものだと考えられるようなものも、あるのではないかと思われます。
もちろん、それらの考えや行ないが、直接“素直な心”ということばで説かれている場合はほとんどないだろうと思います。けれども、お互い人間の心をゆたかにしたとか、悩み苦しむ人びとに光明、救いを与えたとか、よりよき共同生活を実現するために努力したとか、人間として生きてゆくべき道を的確にさし示したとかいったように、人びとの幸せを高めるために貢献した先人の考え、行ないというものは、そこにおのずと素直な心が働いていたとも考えられると思うのです。
というのは、そういった考えや行ないというものは、やはり私心にとらわれることなく、物事の実相を見て何が正しいか何をなすべきかをつかんだとろから生まれてきたものだともいえるのではないでしょうか。だから、素直な心ということばで説かれてはいなくとも、それはまさに素直な心のあらわれた姿であり、素直な心になることの教えであるということもいえると思うのです。
したがって、そういう偉大な先人の方がたの考えや行ないというものを学んでいったならば、知らず知らずのうちに素直な心が養われていくということもあるでしょう。またそこまでいかなくても、素直な心を養っていく上での貴重なヒントを得ることはできるのではないでしょうか。
お互いが素直な心を養っていくために大切なことの一つには、このように幾多の先人の方がたの尊い教え、考え、行ないというようなものを学んでいく、ということもあるのではないでしょうか。だから、そういった先人の方がたのことばを記録した書物、その考えや行ないについて書かれたもの、またそれらの方がたの書きあらわされた著述、そいうものを熟読玩味するとか、あるいはまた正しい宗教心を培い、よりよき宗教活動に参加していくといったことも、素直な心を養っていくための一つの実践になると思います。
第7条 常識化する
お互いがともどもに素直な心を養っていくという姿をあらわしてゆくためには、みんなが素直な心の大切さを十分認識し、素直な心を養いあうことの必要性を正しく認識することが必要不可欠ではないかと思います。いってみれば、素直な心を養うということが、お互いの常識の一つになるということが肝要ではないかと思うのです。
たとえば今日、お互い人間として、ある程度の教育を受け、学問を身につけるということが一つの常識になっているとすれば、それと同じように、“人間ならだれでも素直な心を養わなければならない”ということを一つの常識にするわけです。
もしも実際にそういうことが常識となったならば、たとえば小さな子どもの頃から、両親や周囲の人たちはみな、どのようにしてこの子に素直な心をつちかってゆけばよいか、といったことをある程度真剣に考えるのではないでしょうか。
したがって、幼児教育の内容の中に、素直な心を養うという一つの項目が必ず入っていなければならないということになるかもしれません。また義務教育の過程においても、基礎教育の一つとして素直な心をつちかうという内容が大きな比重をもって加味されてくるでしょう。またさらには、子どもたちの本などにも、素直な心をとりあげたものや、そこまでいかなくても、素直な心になりましょうという呼びかけのことばがしばしば出てくるようになるでしょう。
もちろん、家庭においても、家族同士が互いに素直な心を養い、素直な心で日々の生活を営んでいくようにつとめると思います。家族のうちのだれかが素直ならざる考え方、行動をしたならば、みんなでこれを改めるよういろいろと心を配り、協力しあう、といった姿も生まれてくるのではないでしょうか。
さらにそれでも素直な心が養われていきにくいという場合には、「素直道場」というか、素直な心を専門に養うための一つの機関ができるかもしれません。この素直道場には老若男女を問わず、だれでも入門できるようにするわけです。そして三ヵ月なら三ヵ月の間、素直な心というものについてあらゆる角度から勉強し、認識、理解を高めていくわけです。そのようにすれば、たとえ素直な心が足りないという場合でも、それをある程度補うこともできるわけです。
素直な心の大切さ、素直な心を養っていくということがお互いの常識となったならば、こういった姿のほかにも、いろいろと素直な心を養うことを促進するような姿があらわれてくるのではないかと思います。つまり、先にあげた子どもの本以外にも、おとなの本、さらにはラジオやテレビや映画などにおいても、いろいろな形でとりあげられるのではないでしょうか。
たとえば、これまでしばしば、人間の姿、生き方をとらえた小説や演劇において、愛とか憎しみとか、悲しみや怒りがとりあげられてきました。それと同じような観点から、この素直な心がとりあげられるということも考えられるのではないかと思います。すなわち、愛を一つのテーマにした小説があるとするなら、素直な心をテーマにした小説もまたいろいろと考えられるのではないでしょうか。そしてそれは、愛をテーマにしたものより以上におもしろく、また感動的なものになるかもしれないと思います。
こういったように、素直な心を養っていくということがお互いの常識になったならば、社会のあらゆる面において、さまざまな形で素直な心がとりあげられ、しかもそれを養い高めてゆくことがいろいろな面で強調されるようになってゆくと思います。したがって、そこにはおのずと、お互いの素直な心が養い高められてゆくといった姿もあらわれてくるのではないでしょうか。
このようなことを考えてみますと、お互いが素直な心を養っていくためには、この素直な心を養っていくこと自体を、つまり“人間としてだれしもが素直な心を養っていかなければならないものなのだ”ということを、お互いの一つの常識としていくことが、きわめて大切だと思うのです。
第8条 忘れないための工夫
お互いが素直な心を養っていくために大切なことの一つは、素直な心を養っていくということを決意し、その決意を忘れぬよう保ちつづけてゆくということではないかと思います。いかに強い気持ちをもってした決意であっても、日がたてばうすれてゆくのが人の心というものです。また、たとえうすれていく度合が少ないという場合でも、四六時中、ありとあらゆる考え、態度、行動の中に素直な心が働くよう心がけるということは、なかなかふつうではできにくいことではないかと思われます。
そこで、そういった姿に陥ることのないように、いろいろな工夫が考えられるのではないでしょうか。たとえば、素直な心になるということを何か物に結びつけ、その物をつねに身につけておく、ということも考えられるのではないでしょうか。胸につけるバッジならバッジでもいいでしょう。「素直バッジ」とでもいったバッジをつくって、それをつねに胸につけておき、それによって素直な心になることを忘れないようにするわけです。
それからまた、そういう「物」と同時に、ある一つのしぐさというか動作を工夫して定めるということも考えられるかもしれません。もちろん、そうした動作をしたからといって、つねにのぞましい心持ちとなって、効果をあげるとは限らないでしょう。しかし、それをするとしないとでは、やはりそれなりのちがいが出てくるのではないでしょうか。
したがって、お互いが素直な心になりたい、素直な心で物事に処していきたいという場合でも、何か一つの定まった動作をする、というようにしてみたらどうかと思うのです。その動作をすることによって、みずから素直な心になろう、という思いが浮かんでくるわけです。だからその動作を一つの習慣として身につけるようにしたならば、どういう場合にもその動作が出てきて、あたかも神仏に手を合わすのと同じように、それによって素直な心になるための実践を忘れないようにしていくことができるのではないかと思います。 このように、お互いが素直な心になるということを忘れずに日々をすごしてゆくための工夫というものは、考えれば次つぎと出てくるように思われます。
そして、お互いがそれぞれなりの工夫をこらして、素直な心になることをつねに忘れずに考えていくようになったならば、お互いの素直な心というものも一歩一歩、養い高められていくようになるのではないかと思います。
第9条 体験発表
お互いがそれぞれに素直な心の意義、内容というものを十分に理解し、そして日々の生活、活動をつねに素直な心で営んでいくよう心がけていったならば、物事を素直な心で見、考えるという姿もしだいに培われてくるのではないかと思いますが、そういう姿を助成促進させるために大事なことの一つに、「体験発表」ということがあるのではないかと思います。
それはどういうことかというと、お互いが自分なりに素直な心で物を見、考え、行なったと考える内容をそれぞれに発表しあって、ともどもに参考にしあうと同時に、あわせてその発表された内容を互いに検討しあい、素直な心になるということをさらに深くきわめていく、ということです。
お互いそれぞれの立場とか、生活、活動の内容はさまざまに異なっています。したがって、同じ素直な心を心がけ、実践したとしても、その実際の形というか内容というものは、いろいろとちがったものになるわけです。ところが、お互い一人ひとりの生活、活動の範囲にはおのずと限りがあります。だから、自分が素直な心の実践を心がけ行なった内容は自分でわかりますが、他の多くの人びとの実践体験の内容というものはわかりません。
そこで、お互いがそれぞれの体験をもちよってその内容を発表しあうならば、他の多くの人びとの実践内容を知ることができると思います。そうすれば、自分では気づかなかったこともわかるでしょうし、いろいろの示唆を得ることもできるのではないでしょうか。
この体験発表の場において、みずからの実践内容の是非を他に問うというか、広く意見を求めて、そしてそれを参考にしつつ、さらに素直な心を養い高めていくよう心がける、ということもきわめて大切だと思います。さらにまた、自分自身の体験について自分で検討することは非常に大事なことでしょうが、それとあわせて、こういう体験発表の場で他の多くの人びとの体験もきき、それを検討してみるということも、素直な心を養い高めていく上で、非常に役に立つ大事なことではないでしょうか。
そういうようなことを考えてみると、素直な心についての体験発表の会合をもつということは、お互いが素直な心を養い高めていくために、いろいろな点から、きわめて大切であるといえましょう。
第10条 グループとして
お互いが素直な心を養っていこうとする場合、一人ひとりが個々にいろいろな工夫をし、実践をしてゆくといった姿もあると思います。そしてそういう姿というものも、素直な心を養っていく上で非常に大切なものではないかと思うのです。
しかし、そういうように個々バラバラな姿である場合においては、ときとして素直な心になろうという思いを忘れたり、また忘れていなくてもその心がけを実践することを怠ったりというように、どちらかというと素直な心を養っていこうという意気込みなり態度が弱まりかねない面もあるのではないでしょうか。人間というものは、自分で自分を甘やかすというか、そういった点に一面の弱さがあるのではないかと思われます。
そこで、そういう姿に陥ることのないよう、集団でというか一つのグループをつくって、素直な心をともど もに養っていくことも非常に大切なことではないでしょうか。つまり、「素直な心を養う仲間」「素直な心の 実践グループ」とでもいったものをつくるわけです。
そういった素直グループができたならば、そのグループとして互いに素直な心を養っていくことを決意し誓うわけです。そして、グループ員は互いに、一日もはやく、少しでも高く、素直な心になることができるように、協力しあうのです。
また、グループ員の言動についても、それが素直な心からのものであるかどうかが、折にふれて他のグループ員から助言されるでしょう。そのことによって、もしかりに自分をつい甘やかして素直な心を忘れたような言動をとってしまっていた場合でも、すぐにそれを反省し、改めていくこともできると思います。
その助言は、もちろん過去の言動を反省するためのものばかりではなく、これからどうやって素直な心を養っていくかということについてのそれぞれの工夫を交換しあう、といった面もあるわけです。グループ員同士は、「素直な心を養う仲間」なのですから、あらゆる機会をとらえて、互いに素直な心になっていけるような配慮をしあい、工夫をこらしあい、実践をしあってゆくわけです。
そのようにするところから、お互い一人ひとりが手をとりあって素直な心をたゆみなく養い高めてゆくといった、まことに好ましい姿も生まれてくるのではないでしょうか。