第1条 衆知が集まらない


素直な心がない場合には、人のことばに耳を傾けようとしなくなり、その結果、衆知が集まらないようになる

 素直な心が働いていない場合におこってくる弊害というものは、これはいろいろとあると思いますが、その中でもとくに大きな弊害の一つは、人のことばに耳を傾けようとしなくなることではないかと思います。つまり、素直な心がないと、人がたとえ親切に教えてくれたり、助言してくれた大切なことでも、それをいたずらに聞き流したり、拒否したりするとが多くなるように思うのです。

 なぜ、そういうことになるのかというと、これはいろいろな場合があると思います。たとえば、自分の考え、行動は絶対に正しい、だから他人の助言を聞く必要はない、むしろそれはジャマになる、というように考えている場合もあるでしょう。また、とにかく自分の好きなことをやりたいのだ、他人の意見など聞きたくないのだと、事の是非はともかく自分のカラにとじこもろうとする人もあるでしょう。さらには、親切そうに言ってくれるけれども、これはきっと自分を失敗させようとして言っているのだろう。なにかワナがあるにちがいない、というように不信感が先に立って他人の意見をまともにうけとれない場合もあるかもしれません。

 そういうように、他人の意見をきかないといっても、そこにはいろいろな場合が考えられますし、時にはそれが正しい場合もあるかもしれないと思います。しかし基本的にいって他人の意見が素直に聞けないというのは、結局自分というものにとらわれている姿であって、決して好ましい姿ではないように思うのです。

 というのは、そのように、人のことばに耳を傾けないということになると、そのことによって、いろいろな弊害が生まれてくるからです。たとえば、人のことばに耳を傾けないということになれば、自分自身が物事に失敗しやすくなるのではないかと思います。

 いかにすぐれた知恵、広い知識をもっていたとしても、しょせん一人の知恵、知識には限りがあります。その限りある知恵、知識のみによって物事を判断していたならば、ときに適切な判断ができたとしても、いつかはあやまった判断をし、思わぬ失敗をしてしまうことにもなりかねないでしょう。

 そしてその失敗によるマイナスが自分一人だけのものであるならばまだしも、その人の立場によっては、周囲の人びとにも、また世の人びとにも、さまざまなマイナスをもたらすことになりかねません。そういう意味での弊害もあるのではないかと思うのです。

 そういうようなことをいろいろ考えてみると、素直な心が働かない場合の最も大きな弊害のひとつは、いわゆる衆知というものが集まらない、ということではないかと思われるのです。すなわち、素直な心が働かなければ他人の声に耳を傾けようとしなくなる、耳を傾けようとしなければ衆知が集まらなくなる、ということがいえるのではないかと思うのです。


第2条 固定停滞


素直な心がない場合には、現状にとらわれて創意工夫をおこたり、
進歩向上のない固定停滞の姿が続いていくようになる

 素直な心というものがない場合の弊害の一つに、物事の進歩向上が得られにくい、ということがあるのではないかと思われます。すなわち、素直な心がない場合には、よりよい姿を求めてより新しい歩みを進めていくといったような姿が生まれにくく、現状をよしとして改めるべきをも改めようとせず、いわゆる固定というか、停滞というか、そういう状況のままに推移していくといった姿があらわれるのではないかと思うのです。

 なぜ、そういう固定、渋滞の姿が続くことになってしまうのかというと、その原因はいろいろあると思います。たとえば、素直な心がなければ、現状なりこれまでの常識なり、そういったものにとらわれがちになり、それが固定、停滞に結びつくのではないかと思うのです。技術にしても、これまでのものが最良だと思っていたならば、よりすぐれた新しい技術を取り入れることを怠り、従来の旧式な技術をいつまでも使用するといった停滞の姿に陥りかねないでしょう。

 また、一つの思想や学説などを最良最高のものと思い込んで、他をかえりみることをしないというような姿に陥ったならば、これまた時代の変化、人心の移り変わりなどとかけ はなれた、きわめて旧式なものとなってもろもろの停滞を招くことにつながってゆくでしょう。

 そのように素直な心がない場合には、往々にして一つのことにとらわれがちとなり、改めるべきをも改めようとしないといった姿が生まれ、物事の進歩向上というものが得られない、いわゆる固定、渋滞の姿があらわれてくるのではないかと思うのです。

 ところが、現実の世の中には、案外こういうことが忘れられており、知らず知らず現状とか一度つくったものを固定化し、それにとらわれている姿が少ないようです。たとえば、いわゆる議会における議員の定数のようなものでも、もちろん規定によって変更が加えられるということはあるでしょうが、抜本的にというか根本に立ちかえって、果たして現在のような定数自体が最も好ましいものなのかどうか、というような検討は行なわれているでしょうか。現在よりも少ない定数で、しかも効率よく議会の使命を果たしてゆくという方法は、どうもあまり十分には検討されていないように思われます。

 また、いわゆる行政機構というようなものについてみても、これまでくり返しその合理化が叫ばれ、いろいろ検討もされ一部は実施されているようですが、しかしそれはごく小さな部分であって、抜本的な合理化というものはなかなか検討されにくいようです。

 こういった姿は、やはり現状というか、一度つくり上げたものを固定化し、そのワクにとらわれている姿ともいえるのではないかと思いますが、やはりこうした姿も素直な心が働いていないところから生じているのではないでしょうか。


第3条 目先の利害にとらわれる


素直な心がない場合には、目先の利害にとらわれて物事を判断した行動をとりやすく、将来の発展を損なう場合が少なくない

 素直な心というものがない場合の弊害のひとつに、目先の小さな利害にとらわれる、ということがあるのではないかと思います。すなわち、素直な心が働いていなければ、ついつい自分の目先の利害得失に心奪われ、それにとらわれて物事を考え、判断を下し、行動をとってゆくことになりかねないということです。

 もちろん、お互いが利害得失を考えるというのは、これは人間としていわば当然の姿であって、それを考えつつ物事を判断し、行なうということは、きわめてあたりまえのことだと思います。しかし、だからといって、つねに自分の利害得失だけを考え、それのみに基づいて物を判断するということになると、これはいささか目先の利害にとらわれた姿であり、そこからは物事はスムーズに運ばないのではないかと思うのです。

 自分の利害にとらわれるということは、いってみれば、その時々の自分の利益になることのみを追い求め、肯定し、損害になることはすべていみ嫌い、遠ざけ、否定する、というような姿であるともいえるでしょう。しかし、そういう、自分のことしか考えない姿というものは、往々にして他の人びとの利害を無視したり、軽視したりすることにも結びつきかねません。したがって、とかく人々の反発、非難を受けることにもなるでしょう。そこには争いが生じ、自他ともの損失を生むことにもなりかねないと思います。

 お互い人間は相寄って共同生活を営んでいるわけですから、互いに自分一人だけの目先の利害を考えていたのでは、共同生活をスムーズに運営していくことはむつかしいでしょう。やはり、自分の利益は当然考えるけれども、それと同時に他の人の利益についても考える。また目先のことことだけでなく将来にわたって益になることを考える。

 そのようにしてこそ、自他ともの利益というものが調和した姿において満たされ、ともどもに和やかに日々をおくっていくこともできるようになるわけです。しかしながら、お互いが素直な心をもっていない場合には、ついつい自分の目先の利害にとらわれて物を考え、事を判断するということになりがちのようです。

 たとえば、卑近なところでは、先般ある大都市でゴミ処理場の建設をめぐってトラブルがおこりましたが、これなどもその一例といえましょう。つまりゴミ処理場の必要性は認めるが、しかし自分たちの住む家の近くにはつくってほしくない、どこか他の地区のもっと遠くへ建ててほしい、などという住民の声が強くて、責任者としても処理場の建設用地が決定できず、事がなかなか運ばなかったということです。

 そしてそのために九年ちかくの長い間にわたって、ああでもないこうでもないということでトラブルが続き、住民たち自身もいろいろと頭をつかったり、悩んだり、互いに争ったりしたということです。お互いが自分の目先の利害にとらわれて物事を判断し、行動するところからは、結局、自分自身も社会全体としても大きなマイナスを招くことになると思われます。


第4条 感情にとらわれる


素直な心がない場合には、感情にとらわれ、われを忘れて、思わぬ失敗を招くことにもなりかねない

 素直な心というものが働かない場合には、物事を見、考える際に、ともすれば感情にふり回されるというか、感情にとらわれて事をあやまることが多くなるのではないかと思います。すなわち、人間というものには、よきにつけあしきにつけ感情の動きがあります。うれしいことがあれば喜び、腹が立つことがあったならば怒り、つらいことがあれば悲し むというように、さまざまな感情の動き、起伏というようなものがあります。

 そして人間はもともと「感情の動物である」などといわれるように、そういった感情に 左右されて動くといった傾向を少なからずもっていると思います。が、素直な心が働かな い場合には、そういう傾向がとくにつよくあらわれてくるのではないかと思うのです。

 ところが、もしそういう感情の動きにとらわれて物事を判断し、行動するようなことが あったとしたならば、やはりそこには適切な判断ができず、したがって思わぬあやまちを 犯すことになる場合も間々あると思います。そういうような例は、これまでの人間の歩みをふり返ってみても、枚挙にいとまがないと思います。

 たとえば、古今東西においてお互い人間は、くり返し他を傷つけたり命を奪ったりするという姿をあらわしていますが、そうした好ましからざる姿というか行為を生ずる原因の 大きなものの一つは、この“感情にとらわれる”ということがあるのではないでしょうか。つまり、なんらかのきっかけによって、相手に恨みや憎しみといった感情を抱いたような 場合、素直な心がなければその感情にとらわれてしまうわけです。

 そしてそういった憎しみ恨みを晴らしたいという考えのみに心奪われて、自分でもいろ いろと心を労し、心を悩ませるばかりでなく、ついには相手と争いをおこし、互いに傷つけあい血を流しあうといった、まことに不幸な姿をもたらすことにもなりかねないでしょう。

 ところがこの場合に、もしも素直な心が働いていたならば、そうした不幸な結果を生じることはさけられるのではないかと思います。というのは、素直な心が働いておれば、自 分の感情の動きというものも冷静に把握できますし、またそれにとらわれてしまうことの ないように、自分を失うことのないように、といった自制の心も働くでしょう。だから、結局、その憎しみや恨みを晴らすための好ましからざる行動に出るというようなことはさけられると思うのです。

 今日、お互いの身の回りにおいても、カッとして、逆上して人と争い、傷つけ殺してしまったとか、とかく感情にとらわれ、我を忘れて事を行なって失敗してしまったというような姿は、マスコミなどでも連日のように報道されています。こうした姿というものも、やはり一つには、素直な心が働いていないために感情にとらわれ、われを忘れてしまうというようなところから生じている面もあるのではないでしょうか。


第5条 一面のみを見る


素直な心がない場合には、物事の一面のみを見て、それにとらわれがちになってしまう

 お互い人間の精神面の苦しみ、悩みというものは、ときとしてみずからの命をたつほどに強く、深いものがあるようです。現に、今日この世の中においても、そうした悩みを抱き、絶望してみずからの命をたってしまったというまことに気の毒な姿がしばしばくり返されているのではないかと思われます。

たとえば、受験を前にした受験生が、自信をなくして自殺したとか、事業に失敗した人が絶望のあまり自殺したとか、あるいは失恋をしたとか人間関係がうまくいかないなどということで自殺したというような例が少なくないように思うのです。

しかしこうした不幸な姿というものは、やはりお互いの努力によってなるべく少なくしてゆかなければならないと思います。それでは、そういった不幸な姿に結びつく悩みとか絶望というものは、なぜ生じてくるのでしょうか。

これについては、もちろんそこにはそれぞれの事情があって、一概にはいえないと思います。また見方考え方もさまざまなものがあろうと思われます。けれども、総じていうならば、やはりそうした悩みなり絶望というものは、物事の一面のみを見てそれにとらわれてしまう、というようなところから生じてくる場合も少なくないのではないでしょうか。

だから、同じ一つの物事であっても、それに対して、いろいろな見方があり、さまざまな面から考えることができるわけです。だから、一見してマイナスと思われるようなことでも、実際にはそれなりのプラスがあるというのが世の常ではないかと思います。いってみれば、雨が降れば着物がぬれて困ると見る見方もある反面、畑の作物をうるおしてくれると喜んで見る見方もあるわけです。

ところが、そのうちの一面のみを見てそれにとらわれてしまうと、いたずらに心を悩ませたり、極端な場合は絶望してみずからの命をたつといったような不幸な姿にも陥りかねないわけです。

それではどうして、そういった一面のみにとらわれるような姿に陥るのかというと、それはやはり素直な心がないからではないかと思います。つまり素直な心がない場合には、往々にして一つのことにとらわれてしまったり、自分の考えとか感情にとらわれてしまいます。だから、ついつい物事の一面だけしか目に入らず、他の面まで見る心の余裕もなければ、また視野というもの自体がひらけなくなる場合が多いと思われます。

したがって、素直な心がない場合には、物事のさまざまな面を見、考えることができず、単に一面のみを見てそれにとらわれるといった姿に陥ることにもなりかねません。そしてそういうところから、ここに述べたようなさまざまの不幸な姿が生じることにもなってくると思うのです。


第6条 無理が生じやすい


素直な心がない場合には、とかく物事にとらわれがちとなり、ついつい無理をしてしまうことになりやすくなる

 “無理をしてはいけない”ということは、お互いの日常生活においてしばしばくり返しいわれていることではないかと思います。無理をしないということは、辞書によれば、道理に反することをしない、理由がたたないことをしない、行ないにくいことをしいてしない、というようなことですが、これはいってみればごくあたりまえのことのようにも考えられます。

 しかし、このあたりまえのことが、実際にはなかなか守られにくいようです。たとえば、お互いの日々の生活、活動の上においても信号が赤に変わりかけているのに無理して車を進ませるとか、能力以上の仕事を無理してかかえ込むとか、あるいは他の人に対して物事を無理じいするとかいったような姿は、しばしばくり返されているのではないでしょうか。

 そして、そういった無理によって、いったいどのような姿が生じているのかというと、それはだいたいにおいて好ましからざる姿に結びつく場合が多いように思われます。つまり、たとえば信号無視の無理をすれば事故につながるとか、能力以上の無理をすれば失敗してしまうとか、あるいは無理じいをして人の反発を買い、争いになってしまうとかいうように、往々にしてマイナスを生じかねないと思うのです。

 だからそういった無理はしない方がよい、ということは、これはだれでも一応は知っているであろうと思います。ところが、実際はなかなかそういう姿がなくなりません。これはいったいどうしてでしょうか。なぜ、そういう無理がなされるのでしょうか。

 これは、もちろん、一言ではなかなかいえないものがいろいろあるのだと思います。たとえば、その時の必要に迫られて、結果のマイナスなど考えてみる余裕がなかったため、無理を承知で無理をした、というような場合もあるでしょう。

 また、自分自身の意欲とか欲望にとらわれてしまい、たとえばかけごとで取り返しのつかない大損をするとか、遊びに夢中になって徹夜の不摂生をつづけるといったように、無理は承知だけれども、ついつい無理をする、また人に無理じいをする、というような場合もあるかもしれません。こういうように、いろいろな場合が考えられると思います。

 けれども、そういった場合を通じていえることは、結局のところ、素直な心がないということ、つまり素直な心が働いていないから無理というものが生じてくる、ということではないでしょうか。つまり、なにかの必要に迫られて心に余裕がなくなるというのも、これはいわば一つのことにとらわれた姿であって、素直な心のない姿であるともいえるでしょうし、また意欲や欲望にとらわれるという姿は、まさに素直な心のない姿そのものであるともいえるでしょう。

 すなわち、お互いが無理を承知で無理をするというような姿というものは、お互い素直な心をもたずに、いろいろなことにとらわれるというようなところから生じてくる場合が多いと思うのです。


第7条 治安の悪化


素直な心がない場合には、個々人がバラバラとなって共同生活の秩序も乱れがちとなり、治安が悪化しやすくなる

 共同生活を営むお互い一人ひとりが、それぞれの生活、活動を自由にスムーズに進めてゆくためには、そこに秩序というものが必要になってくるわけですが、その秩序が十分保たれ、人びとが安心して生活を営める状態が、いわゆる治安の保たれているということだと思います。

 もしもそういう社会の秩序、治安というものが十分保たれていなかったならば、お互いは安心して日々の活動、生活を営むことができにくくなるでしょう。たとえば、ちょっと外出するという場合でも、治安がわるければいつどこでひったくりに会うかわからない、辻強盗にあうかわからない、あるいは暴力団の争いや爆破事件にあうかわからない、といったようなさまざまな心配、不安が出てくるわけです。

 こういう姿では、安心して外出することもできにくくなりますから、お互いの日々の生活、活動というものは、なかなかスムーズに進まないようになってしまうでしょう。そういう意味からいって、共同生活の秩序を保つ、よりよい治安を保っていくということは、お互い一人ひとりにとってきわめて大切なことだと思われます。したがって、お互いこの治安の大切さを十分に理解し、よりよき秩序、治安を保ってゆくことができるよう、つね日頃から十分に心がけてゆくことが大事だと思うのです。

 けれども、お互いが素直な心というものをもっていない場合には、その大切な治安というものが保たれにくくなってくるのではないでしょうか。というのは、お互いが素直な心をもっていなければ、共同生活の秩序もとかく乱れることが多くなり、事故や犯罪もふえて、治安が悪化しがちになってしまうと思うからです。

 すなわち、素直な心がなければ、物事の実相を見ることができません。したがって物事を判断する場合に、どうしても自分の利害とか立場などのみにとらわれがちとなってしまいます。そのために何が正しいのか、何をなすべきか、といったことがわからなくなり、したがって正しいことに毅然として従うという姿も見られず、めいめいがいわば自分勝手な考えをもって行動しがちになるのではないでしょうか。

 つまりみんながバラバラで、自分の思い通りに行動しようとするわけですから、共同生活全体の秩序というものが成り立ちにくくなってしまうわけです。それはたとえば遵法の精神なり、約束事を守るという態度が失われるという姿となってあらわれてくると思います。そして、各人が自分なりの考えとか欲望のみに基づいて物事を判断し、行動していくことがますます多くなっていくでしょう。

 しかもその判断や行動が自分では正しいと思い込んでいるわけですから、互いに衝突して譲らないということにもなりかねません。早い話が、交差点の信号が黄色になっても赤になっても自分の車は進むのだという人ばかりの社会であったら、どうなるでしょうか。たちまちのうちに車と車が衝突し、互いに傷つき、道路という道路は大混乱に陥るでしょう。そのように共同生活を律する約束事をお互いに守り合うという姿が全くなければ、共同生活が無法状態に陥り、治安が乱れに乱れるということにもなりかねません。


第8条 意思疎通が不十分


素直な心がなければ、率直にものを言うこともなく、素直に耳も傾けないために、互いの意思疎通が不十分となりがちである

 ときおり、新聞などの報道でみる事件に、両親に結婚を反対されたので思いあまって自殺したとか、二人で心中したとかいった姿があります。そしてそういう記事をみますと、そのご両親などの談話として、「二人がそれほど思いつめていたとは知らなかった。こんなことになるくらいなら、結婚を許してやればよかった」といったようなことばがのせられていることが少なくないようです。

 これは、まことにいたましい、気の毒な姿だと思います。だからお互いに、こうした姿がおこってほしくはない、ということをだれもが考えるだろうと思います。ところが、実際にはくり返しおこっている、ということです。いったいどうしてこういった姿がおこるのでしょうか。

 考え方はいろいろあるでしょう。が、やはり一つには、そこに素直な心というものが働いていなかった、ということもそういう姿のおこる原因の一つではないでしょうか。というのは、お互いが素直な心をもっていない場合には、往々にして互いの意思疎通が不十分になってしまうと思うからです。

 つまり、お互いが素直な心をもっていなければ、いろいろなことにとらわれたり、こだわったりして、とかく率直にものが言えないといった姿にも陥りかねません。また聞く側にしても、自分なりの先入観や考えにとらわれがちとなって、相手の言うことを素直にありのままに聞くといった態度を見失いがちとなるでしょう。

 ですから、そこにとかく十分な意思疎通を欠くといった姿もあらわれてくるわけです。たとえば初めにあげた例でいえば、子は子なりに、「親たちはいくら言ってもどうせ理解はしてくれない。子の気持ちなど親にはわからないんだ。もういい、死んでやるから……」というように考えて、親の気持ちを理解しようとはせずに行動に走ってしまった、ということかもしれません。

 また親の方は親の方で、「まだ若くて生活力も十分にないうちに結婚すれば、必ず本人たち自身が苦労して、ゆきづまってしまうだろう。だから、今、二人が結婚することには反対だ。この親心がなぜ二人にはわからないんだろう……」という考えにとらわれて、本人たちの真剣さには十分考えが及ばなかったのかもしれません。

 しかし互いに素直な心があれば、少なくとも意思疎通がわるいための悲劇というものは、さけられるのではないでしょうか。けれども素直な心というものがない場合には、そうした意思疎通もとかく不十分となって、そこにさまざまの好ましからざる姿をもたらしかねないわけです。

 そしてそれは、単に家庭内の問題に限らず、会社などでも、また社会、国家といった大きな集団においても、およそ共同生活というものにおいて同じようなことがいえるのではないでしょうか。つまり共同生活にお互いの意思疎通が十分でないと、相手を理解しあうということも十分でなく、また、お互いに疑いをもったり不信感を抱いたりして、いろいろと好ましくない姿が生じてくることにもなりかねない、というわけです。


第9条 独善に陥りやすい


素直な心がない場合には、自分の考えにとらわれ、視野もせまくなって、往々にして独善の姿に陥りかねない

 お互い人間というものは、つねにあやまちなく物を考え、行なっているかというと、神様ではありませんから、なかなかそうもいかないようです。たとえ自分ではまちがいない、 正しいと思い込んでいたとしても、客観的にみれば、ずいぶん道を外れ、あやまった姿に陥っていたというような場合が少なくないと思われます。

 ところが問題は、そのあやまちを自分自身ではなかなか気づかない、気づくことができにくい、ということです。気づかないどころか、むしろまちがいない、これが正しいのだ、と決め込んでいる場合が少なくないわけです。これはまことに困った姿です。

 というのは、そういう姿では、もし仮に他の人びとからそのまちがいを指摘されたとしても、それを素直に受け入れることは少なく、往々にして、それをいわば非難や中傷であるかのごとく受けとりかねない、というおそれがあるからです。しかし、こうした独善の姿に陥ってしまったのでは、自分がまちがいを犯しているうえに、さらに他との摩擦、トラブルなどの好ましからざる姿をもたらしかねません。

 それではなぜこうした独善の姿が生じてくるのかというと、もちろん見方、考え方はいろいろあると思います。けれども、こうした好ましからざる態度、姿というものは、やはりお互いに素直な心が働いていないところから生ずる場合が多いのではないかと思われます。というのは、素直な心が働いていない場合には、やはりどうしても自分の考えのみにとらわれてしまい、それのみが正しいというように思い込みやすくなるのではないかと思うからです。

 そうした姿の例としては、例えばあのナチスドイツのヒットラーがあげられるのではないでしょうか。ヒットラーは私心にとらわれ、独善に陥り、大戦争をひきおこして、幾多の尊い人命を損ない、膨大な物資を破壊しつくすといった好ましからざる姿をもたらしました。

 また、今日、一つの主義思想を是として、それを尊ぶあまりに絶対視し、それ以外のものはみなまちがっているのだ、という考えに陥っている傾向も一部にみられるようです。が、こうした姿というものも、やはり素直な心のないところからおこる独善の姿の一つではないかと思われます。

 というのは、もし素直な心が働いていたならば、広い視野がひらけ、あらゆる角度から、物事を見、考えることができますから、ただ一つの主義思想にとらわれるといった姿に陥ることもなく、あらゆる主義思想のそれぞれの長所というか、それに含まれている真理を見出すこともできやすくなるでしょう。

 したがってそこには、百の思想を百とも生かすといったような、まことに好ましい姿ももたらされてくると思います。そしてそういう姿からは、いってみれば百の思想の百の真理がすべて生かされ、それによって、諸事万般にわたってのよりよき姿、一層の幸せの姿、 お互い人間の共同生活の向上というものももたらされてくるのではないでしょうか。


第10条 生産性が低下する


素直な心がない場合には、いろいろな無駄や非能率が多くなって生産性というものが低下するようになる

 お互い人間のそれぞれの活動がスムーズに進められ、その努力にふさわしい成果が得られるところから、この世の中はしだいにみのりゆたかな姿をあらわし、共同生活の向上という好ましい姿ももたらされてくると思います。そしてそれは、ことばをかえていうならば、いわゆる生産性の高いところから世の繁栄発展がスムーズにもたらされ、お互いのよりよき共同生活というものも実現してくる、ということではないかと思われます。

 だから、この社会の各面各分野において、それぞれなりの生産性の向上を生み出していくということが、きわめてのぞましく、大切なことではないかと思います。

 けれども、お互いが素直な心をもっていない場合には、人それぞれの活動や共同生活の営みの上にいろいろとムダや非能率な姿が多くなり、そういう生産性の向上というものは得がたくなるというか、むしろ逆に生産性の低下といった好ましくない姿も生じてくるのではないでしょうか。

 なぜ、素直な心がないとムダや非能率がふえてくるのか。これは一つには、素直な心がない場合には、お互いに調和する心、ゆずりあう心といったものが低調になるからではないでしょうか。調和する心が十分にあれば、たとえ多少考え方のちがいなどがあったとしても、それをことさらに問題として互いに非難したり争ったりするようなことはさけて、ちがいはちがいとみとめつつ、和やかに物事を進めていくといった姿にもなるでしょう。

 したがって、衆知もあつまり、また、ムダも少なく非能率な姿も少なくなると思います。

ところが、反対に、調和する心がうすければ、ちょっとしたちがいであっても、それをことさら問題にして、いろいろなトラブルがおこることにもなるでしょう。そういう姿からは、いろいろとムダも生まれ、非能率にも結びついていくのではないでしょうか。

 しかも、素直な心がなければ、それぞれが自分の立場とか利害得失にとらわれがちになるでしょう。そうすると、やはりどうしても相手に対する配慮もうすくなってしまいます。 それで、相手に譲るべき場合でも譲らないとか、許すべきであるのに許さないとか、守るべき約束を守らないとか、あるいはまた何かにつけてとがめだてするとか、疑いの目でみたりするとかいった姿にも陥りかねません。

 こういうギクシャクした姿になった場合には、たとえば交渉ひとつするにしても、必要以上に説明や釈明をしなければならないというようなことになって、ムダや非能率に結びつき、往々にして生産性の低下ということを招きかねないのではないかと思われます。まして、問題などがこじれてケンカになったり裁判沙汰にでもなれば、生産性の低下は一層その度合を深めることになってしまうのではないでしょうか。

 このようなことを考えてみても、素直な心がない場合には、ムダな時間や費用が多くかかり、またいらざることに心を労し、頭をつかうなどして、生産性が非常に低下するのではないかと思うのです。