第1条 私心にとらわれない
私心にとらわれることのない心である
素直な心というものの内容のひとつには、自分だけの利益や欲望にとらわれることのない、いわゆる私心にとらわれない、ということがあげられると思います。
ふつう一般にいって、私心というか、私利私欲を求める心というものは、お互い人間が生きているからには当然あるものというか、当然働くものでありましょう。私心が全くない、というような人間は、いってみれば俗事を超越した神の如き聖人であって、お互い凡人がそう簡単に到達し得る境地ではないと思います。やはり、ふつうの場合は、それなりの私心をもって日々の生活を営み、活動を続けているのが、お互い人間の姿といえるのではないでしょうか。また、それはそれでよいと思うのです。
けれども問題は、その私心にとらわれ、私利私欲の奴隷になってはならないということです。私心にとらわれて物を考え、事を行うということになると、やはりいろいろと好ましからざる姿が起こってくると思うのです。たとえば仮に政治の衝にあたる人が私心にとらわれて自分にばかり都合のいい政治をおこなうとしたらどうなるでしょう。そういう姿からは国民の多くがいろいろな迷惑をうけ、多大な損害をこうむることにもなりかねないでしょう。そしてそれはその政治家自身にも、国民の支持が失われるなどの大きなマイナスとなってはね返ってくると思います。
だからお互いに素直な心になることが大切です。素直な心になったならば、もちろん私心は働くけれども、それにとらわれることなく、他の人びとのことも十分配慮する、というような姿になると思うのです。(つづく)
第2条 耳を傾ける
戦国時代の武将、黒田長政は、“腹立てず”の異見会という会合を月に二、三度ずつ催していたといいます。参加者は家老をはじめとして、思慮があって、相談相手によい者、またはとりわけ主君のためを思う者など六、七人であったということです。
その会合を行う場合には、まず長政から参加者に対して次のような申し渡しがあります。「今夜は何事をいおうとも決して意趣に残してはならない。他言もしてはならない。もちろん当座で腹を立てたりしてはならない。思っていることは何でも遠慮なくいうように」
そこで一座の者も、それを守る誓いを立てた上で、長政の身の上の悪い点、家来たちへの仕打ち、国の仕置きで道理に合わないと思われる点など、なんでも低意なく申し述べるわけです。過失があって出仕をとめられた者や扶持をはなれた者のわびもいう。そのほかなにごとによらず、通常の場合には口にしにくいことをいい合いました。
もちろん長政も人間です。だから自分の悪い点を家来が面と向かって指摘したなら腹も立つでしょう。しかし、そこで腹を立てればもうおしまいです。だからそのことをあらかじめ考えて、会合の前に“腹を立ててはいけない”というルールをお互いに誓いあって万全を期していたわけです。まことにゆきとどいた姿といえるのではないでしょうか。
長政がそういう姿の会合を続けていたということは、一つには自分にも至らない点、気づいていないこと、知らないことがある、それは改めなければならないから教えてもらおう、というような謙虚な心をもっていたからではないかと思われます。
そういう謙虚さはどこから出てきたかというと、それはやはり素直な心が働いているところから出てきたのではないかと思うのです。謙虚な心で衆知に耳を傾けるということは、いつの時代どんな場合でも非常に大切なことですが、素直な心が働けば、そういう姿がおのずと生まれてくるのではないかと思います。(つづく)
第3条 寛容
お互い人間は、どこかの離れ小島でたった一人で生きているというのでなく、ふつうみなが相寄って、集団生活、共同生活というものを営んでいます。その共同生活を営んでいく上で大切なことはいろいろありましょうが、中でも最も大切なことの一つは、お互いがともどもによりよく生きてゆく、ということではないでしょうか。そしてそのために大切なことの一つに“寛容”ということがあるのではないかと思います。
共同生活にはいろいろな人がいます。背の高い人もおれば低い人もいます。声の大きい人もおれば小さい人もいるでしょう。いろいろな性格、考え方の持ち主が一緒にいるわけです。したがって、もし背の高い人が低い人に対して、「背が低いのはけしからん。消えてなくなれ」というようなことをいったとするならば、背の低い人たちはみな怒るでしょう。しかしいたたまれなくなってどこかへ行こうと思っても、結局、共同生活から出ていけば生きていくことはできません。だから、背の高い人が低い人の存在を認めないようなことがあれば、両者の間に争いもおこり、お互いの不幸な姿も生まれかねないでしょう。もちろん実際にはこういったことはありえないことかもしれませんが、しかしたとえば思想や宗教、あるいは人種的な差別という面では、往々にしておこりかねないことだといえましょう。
寛容とは、広い心をもって、よく人をゆるしいれるということです。また人のあやまちに対して、きびしくとがめだてしないということです。したがって、たとえよくないことをした人に対して善意をもってそのあやまちを正すということはしたとしても、よくないことをしたからといってその人を憎み、その存在をゆるさない、というようなことはしないということです。それでは寛容ということにはならないだろうと思われます。
それでは、寛容の心はいったいどこから生まれてくるのかといいますと、それはやはり素直な心から生まれてくるものだと思います。つまり、素直な心というものになれば、おのずとそういう寛容の心があらわれてくるのではないかと思うのです。
第4条 実相が見える
素直な心は、物事のありのままの姿、実相というものを見ることのできる心であるともいえると思います。というのは、素直な心になったならば、心の中に物事の実相をおおいかくすというか、これを曇らせるようなものがなくなると思われるからです。
美しく磨きあげられた無色透明なガラスをとおせば、物がそのありのままに見えます。それと同じように、素直な心になったならば、物事の本当の姿というか、実相がはっきりと見えるようになるのではないかと思います。だから実相に基づいて物事を考え、判断することも、しだいにできやすくなってくると思うのです。
もしもこれが、無色透明でなく色のついたガラスであったならばどうでしょうか。色ガラスをとおしてみれば、向こうにあるものの本当の色が正確にはわからなくなります。仮にガラスの色が青色であるとすれば、向こうにある白いものは白くは見えず、青みがかって見えるでしょう。つまりこれでは、本当のありのままの姿というものがわからなくなります。あるいはまた、そのガラスがゆがんだガラスであれば、向こうにあるものもゆがんで見えるわけです。けれども素直な心になって物事を見た場合には、無色透明で正常なガラスをとおして見るように、なんの色もつかず、そのありのままが見えるというわけです。
今日のわが国においては、政治をはじめとして社会の各分野の活動において、またお互いの日々の生活の各面において、いろいろとあやまちやゆきちがいが生まれてきています。そしてそれらがお互いの悩みや苦しみ、対立や争いをいっそう深めている面さえあるように思われます。こういう面もあるということも、一つには、お互いが素直な心ならざる色ガラスをとおして見、それにとらわれて判断を下し行動している、というような姿が少なくないからではないでしょうか。
もしそうであるとするならば、やはりそのままではいけないと思います。お互いに素直な心を養い高め、物事の本当の姿を見ることができるようにつとめなければなりません。じっさい、お互いが素直な心になるならば、しだいに色ガラスでなく無色透明なガラスをとおして物事を見るというような姿にもなってゆくでしょう。したがってその判断は物事の実相に基づいた判断ともなり、あやまちのない適切な判断となってくるわけです。
第5条 道理を知る
寛永の頃に幕府の勘定奉行をつとめた伊丹播磨守康勝は、農民や町民のために利をはかることが多かったといいます。たとえば、その頃、運上金、つまり税金を公儀に納めて、甲斐国から出る鼻紙を一人で商っていたのをうらやんだある富商が、「私にお任せ下されば、これまでより一千両も多くの運上金を納めます。どうかお許し願います」と願い出ました。
それに対し、評議では許すことに決まりそうでしたが、播磨守一人は反対しました。富商はなおも熱心に願いつづけたので、三年後には老中など執政の人々の意見も許すことで一致しました。そのとき播磨守は、「これより後に、盗賊のおこらぬ道が立ちますならば、いかにも許しましょう」といいました。
人びとがそのことばのわけをたずねると、播磨守は次のようにいったということです。「鼻紙というのはみなの生活必需品ですが、その値段が低いから世の助けになっています。千両多く運上金を納めるといいますが、その千両をどこから引きだすつもりでしょうか。その紙の値段を上げて小売商に卸し、小売商がまた値段を上げて売るようになったら、値段は相当高くなるでしょう。一物の値段が上がれば、万物の値段も同じように高くなるのは道理です。
諸物価が高くなって、求めようにも求められなくなる場合には、盗みということがおこります。盗むことが世に盛んになったら、どういう政治をしてこれを防げるでしょうか。盗みは貧よりおこります。わずかに千両の金が増えるからといって、世の風俗を乱してはなりません。運上金を多くしようとすれば、物の値段が高くなっていくのです。このことをよくよくお心得願いたく存じます」。人々は、播磨守の遠いおもんぱかりを知って、みなその言に従ったということです。
今日のわれわれも、物価の問題についていろいろ悩まされていますが、お互いに播磨守のように道理を知り、遠いおもんぱかりをもって物事を考えることも一面において大切ではないでしょうか。そして、そのためにもまずお互いにつね日頃から、素直な心というものを十分養い高めて、つねに素直な心が働くよう心がけていくことが大切だと思うのです。
第6条 すべてに学ぶ心
そこから何らかの教えを得ようとする謙虚さをもった心である
何事も経験であり、勉強である、ということをいいますが、そのような心がまえをもって人生をすごしてゆくならば、月日とともにいろいろなことをおぼえ、学びとってゆくこともできるでしょう。だから、そこからは限りない進歩向上の姿も生まれてくるのではないでしょうか。
たとえば、他の人びとと通常ふつうの会話を交わしている際でも、何の気もなしにただ話をしているだけであれば、その場限りのものとなってしまうでしょう。けれどもそういう際にも、勉強する態度というか、学ぶ心というものを保っていたとするならば、相手のふとしたことばの中からハッと学ばせられるようなものを見つけ出すこともあると思います。自分では気づかなかったような事柄を知ったり、知らなかった知識を得たり、さらには何らかの教訓を得たり、というように、学ぶ心さえあれば、日々の会話であろうと何であろうと、お互いの生活、活動の中からいろいろなことを学びとることができるのではないかと思うのです。
学ぶ心があれば、この世の中の一切の人、物、あらゆる物事のすべてが、自分にとって貴重な教えともなり、勉強ともなってくるでしょう。だから学ぶ心からは、お互いのたゆみなき向上、進歩の姿というものも生まれてくるのではないかと思うのです。
学ぶ心というものは、こうした好ましい姿をもたらすものであると思うのですが、この学ぶ心というものも、素直な心になるところからあらわれてくるものだと思います。というのは素直な心というものは、まだ何もかかれていない白紙のようなもので、吸収すべきは何でも吸収する心だからです。したがって、字であろうと絵であろうと、何でもその上にかくことができます。すでに字がかかれているから、もう絵をかいてはいけない、というようなこともありません。また、すでに全面にわたって字がかかれているから、書き足す必要はもうない、というようなこともないわけです。字でも絵でも、すべてを新しいものとしてみとめ、そして是なるものはこれを大いに受け入れるわけです。
要するに、素直な心になれば、すべてに学ぶ心があらわれてくると思います。いっさいに対して学ぶ心で接し、そしてつねに何らかの教えを得ようとする態度も生まれてくるでしょう。素直な心になったならば、そのような謙虚さ、新鮮さ、積極さというようなものもあらわれてくるのではないかと思います。
第7条 融通無碍
よりよく対処してゆくことのできる融通無碍の働きのある心である
素直な心というものは、融通無碍の働きのある心であるともいえると思います。すなわち、物事に対して臨機応変、自由自在にとりくむことのできる心ではないかと思うのです。したがって、素直な心が働くならば、いつどのような物事に出くわそうとも、必要以上に おどろきあわてることなく、また窮してゆきずまることもなく、つねに正々堂々と物事に対処し、そこによりよき成果を生み出していくことができるのではないでしょうか。
それはいってみれば、一つのことにとらわれたり、固定してしまうというようなことが なくなるからでありましょう。つまり、極端にいえば困っても困らない、一見できないようなことでもできるというように、まことに自由自在な行動、姿というものがそこに生ま れてくるからではないかと思うのです。
たとえばお互いが何か大きな失敗をしたとします。失敗をすること事態は、お互い人間 の常として、一面やむをえないといえるかもしれません。しかしその失敗が自分にとってきわめて深刻な場合には、それを気に病んで悲観し、思いあまって自分の生命をちぢめる といったような姿さえ実際には見られます。これはまことに気の毒な同情すべきことだと思います。
けれども、また一面においては、もしも素直な心が働いていたとするならば、おそらくそういう不幸な姿に陥ることはさけられるのではないかとも考えられます。というのは、 素直な心が働いていたならば、物事を融通無碍に考えることができるからです。ですから、 いかにその失敗が深刻であったとしても、たとえば“失敗は成功の母である”というように考えて、それを生かしていこう、と思い直すことができると思うのです。
ですから、お互いが素直な心を養い高めていったならば、いらざる衝突、争いなどはほ とんどなくなって、きわめて和やかに、つねに談笑のうちに日々の活動が営まれていくようになるわけです。このように、素直な心になったならば、融通無碍な心の働きというも のもあらわれてくるのではないかと思うのです。
第8条 平常心
剣聖といわれた宮本武蔵の記した“五輪書”のには、いわゆる兵法の極意がいろいろ述べられていますが、その一つに“兵法の道において、心の持ちようは、常の心にかわるこ となかれ”というのがあります。これは、たたかいの場においても常の心、すなわち平常心、平静心を保つことが大切だということでしょうが、なかなかこれはむつかしいことであろうと思います。
というのは、たたかいの場といえば、いってみれば命のやりとりが行なわれるわけです。当時であれば刀や槍などの武器がふるわれ、殺気にあふれて必死に争いあうわけでしょう。 だからふつうであれば、極度に緊張し、また興奮もしてくるだろうと思われます。
けれども、そのように心が張りつめ、高ぶってしまったならば、かえって冷静な判断を下すこともできにくく、またとかく身体も柔軟性を失いがちとなり、思わぬ失敗をしてし まうことにもなりかねません。しかも、戦いの場における失敗は死につながると思います。 それだけに、できるだけ冷静な態度を保っていることがのぞましいわけです。そこで宮本武蔵も、兵法の極意の一つとして、この平常心、平静心というものをとりあげたのではないかと思われます。
今日においては、もう実際に命をやりとりするような場は、ふつうの状態においてはほとんどみられません。戦争などの特別な場合を除いては、なくなりつつあると思います。しかし、そういう平常心、平静心というもの自体は、たたかいの場に限らず、またいつの 世にも大事なのではないでしょうか。
というのは、今日のお互いの日々の生活、活動の上においても、冷静さを欠き、平静心を失ったがために、思わぬ失敗を招いたというような姿が、いわば日常茶飯事のようにひ んぱんにおこっているように思われるからです。
さらにまた、人との交渉の際などにおいても、また試験をうけたり、スポーツ競技に参加した場合などにおいても、同じように平常心、平静心というものが、大事になってくる のではないでしょうか。
お互いが素直な心になれば、おのずとそういう平常心、平静心が得られると思います。すなわち、お互いが素直な心で物事を見、考えていったならば、物事を冷静に、平常心を 保って見、考えていくということもできるようになると思うのです。
第9条 価値を知る
価値あるものはその価値を正しくみとめることのできる心である
今、仮にだれかがあなたに対して、一つの助言をしてくれたとします。あなたは、その助言をどう受けとめるでしょうか。もちろん、その助言の内容にもよるわけですが、内容 は一応よいものとして、それをどういう態度で受けとめるか、ということです。
その受けとめ方は、いろいろあると思います。「ああ、これはいい助言をしてくださった、ありがたい」と感謝の心で受けとめ、その助言を生かしていく場合もあるでしょう。その反対に、「いらない世話だ。助言など必要ない」といった拒否の態度をとる場合もあ るでしょうし、さらには、「表面ではいいことをいうが、ウラで何をたくらんでいるかわ からない、気をつけよう」というように不信、疑いの心で受けとめるといった場合もあるかもしれません。
こうした受けとめ方のうち、素直な心をもっている場合の受けとめ方はどういうものか というと、やはり素直な心があれば最初にあげた場合のように、感謝の心で受けとめるのではないかと思います。なぜ感謝の心で受けとめるのかというと、それはもちろん、助言 をしてくれた好意、親切に対しての感謝もあると思います。また、それと同時に、素直な 心というものは、よき助言はよき助言として受けとめることができる。つまりよいものはよいものとしてはっきりと認識することができる心であるからだ、ということです。
素直な心になったならば、物事の本当の姿を見る、物事の実相を見る、ということもできるようになるわけですが、物事の実相を見るということは、やはり一つには、よいものはよいものと認識し、価値あるものはその価値を正しく認める、といったことにもなるだろう思います。だから、よいものはよいものと認識し受けとめるというような態度は、結局のところ、その根本は素直な心の働きのあらわれの一つということになるのではないか と思うのです。
第10条 広い愛の心
お互い人間というものは、他の人が困っているのを見れば、なにか手助けできることは してあげよう、と考えるのが自然の情ではないかと思います。もちろん、他の人の難儀を見ても見ぬふりをする、というような姿もときにはありましょう。しかしそういう場合でも、なにか特別の事情がない限りは、やはり内心ではできれば助けてあげたいとか、だれ か他の人が助けてあげればよいのにとか思っているのであって、これはおもしろい、大いに難儀して苦しめばよい、などとはまず考えないのではないでしょうか。
もともと人間というものは、互いに心を結びあって、大切にしあい、生かしあい、許しあい、助けあって生きてゆこうというような心をもっているのではないかと思うのです。つまり、そういう広い愛の心、慈悲心というものを、本来人間は備えているのではないかと思うのです。
しかしながら、現実のお互い人間の姿というものをみると、必ずしもつねにそういう愛の心、慈悲心が発揮されているとはいえないでしょう。ではなぜ、そういう愛の心が十二分にあらわれてきにくいのでしょうか。これについては考え方はいろいろあるでしょう。しかし、やはり一つには、お互いの心がいろいろなものにとらわれている、だからその本来もっているあたたかい心があらわれてきにくいのではないかと思います。たとえば、お互いの心が一つの利害にとらわれてしまうと、他のことを忘れて利害のみを争うようにもなり、自分の思うようにいかないとそこに憎しみが生まれて愛の心をかくしてしまう、ということもあると思います。
けれども、お互いが素直な心になったならば、そういったもろもろのとらわれというものはなくなっていくと思われます。したがって自分の利害にも、立場にも、また自分の考えや主張にも、すべてにとらわれることがないという姿にもなってくるでしょう。
すなわち、素直な心になれば、人間本来の広い愛の心、慈悲心が働いて、みながともどもに明るく幸せに生きてゆくことができるような姿が生まれ、高まってゆくのではないかと思うのです。
素直な心というものは、そういう広い愛の心、慈悲心にもつながっていると思います。