私ヲ去リ、公ニ就クー「公益」追求の先駆者が遺した理念と数々の事績は時代を超えて光彩を放つ。
渋沢栄一
[1840~1931]
埼玉県に生まれる。生家の家業に精を出す一方で、勉学や剣術にも励み、頭角をあらわす。青少年期に芽生えた社会の不合理への反発心はその後の人生に影響を及ぼすことになった。勤王の志士となり、時代の荒波に呑み込まれたかにみえたが、一橋家に出仕の機会があり、道が開ける。幕臣としてフランス渡航、新たな知見を得、官僚となっては数々の改革にかかわり、退官後は民間で次々に事業を立ち上げ、合本主義を唱道、財界リーダーとしての役割を果たした。最晩年まで社会・教育・文化事業にも尽力、日本の繁栄の礎を築き、九一歳で没した。
「赤字は罪悪」「見えざる契約」「共存共栄」「生成発展」ー幾多の至言に彩られるパナソニック創業者の事業創造の足跡。経営学の泰斗が“経営の神様”の核心に迫る!
松下幸之助
[1894~1989]
和歌山県に生まれる。9歳で単身大阪に出、火鉢店、自転車店で働いた後、電燈会社に勤務、やがて独立開業する。1918年、松下電気器具製作所(現パナソニック)を設立、次々にヒット商品を生み出す。商品開発だけでなく、経営理念重視の経営に取り組む中で事業部制を敷くなど、組織戦略や人材開発においてもその才を発揮した。1945年の終戦後、財閥家族の指定、公職追放など七つの制限を受けるという最大の困難期も乗り越え、家電産業の発展に貢献した。PHP研究所や松下政経塾の設立者としても知られる。94歳でその生涯を閉じた。
単なる合理化ではなく、常に長期ビジョンを提示し、未来につながる手を打ち続けた財界名医・土光敏夫。停滞が続く現代日本においていかにその思想を活かすべきか、具体的な示唆に富む一冊。
土光敏夫
[1896~1988]
岡山県に生まれる。石川島播磨重工業(IHI)、東京芝浦電気(東芝)などの社長として経営や再建に辣腕を振るった。1974年に第4代の経団連会長に就任。「行動する経団連」をスローガンに、第一次石油危機後の日本経済の回復に尽くす。1981年には第二次臨調会長に就任。行政改革の先頭に立った。謹厳実直な人柄、抜群のバイタリティから「財界名医」「ミスター合理化」「怒号さん」「荒法師」「ミスター行革」など様々なニックネームを持つ。一方、質素な生活がテレビで紹介され、「メザシの土光さん」として国民から幅広く愛された。91歳で死去。
戦前期に水道用鋳鉄管の国産化に挑戦、その成功を基盤に、国内インフラ整備に大きく貢献、郷土・因島の発展にも寄与した久保田権四郎。松下幸之助が、「お師匠さん」と敬意を表したその実業道とは?
久保田権四郎
[1870~1959]
広島県に生まれる。貧しさの中に身を置いた少年期に発憤興起、郷里(現尾道市因島大浜町)を離れ、大阪に出、鋳物屋の小僧となる。職人として腕を磨き、独立開業。工場の失火といった創業期の困難も乗り越え、水道用鉄管の国産化に挑戦、やがて鋳鉄管業界で国内首位企業の地位を確立、成功をつかむ。さらに工作機械、自動車、農工用発動機の生産等、製品多角化に挑み続け、食料・水・環境の分野でグローバルに貢献するクボタの事業経営の礎を築いた。郷里の発展を多額の寄附により支援、その遺徳は今も伝えられている。89歳で没した。
今日につながるライフスタイルを、いち早く創造した企業家・小林一三。その多才な活躍の生涯と手腕を、豊富な資料をもとに読み解く。
小林一三
[1873〜1957]
山梨県に生まれる。阪急電鉄(箕面有馬電気軌道)、宝塚歌劇団、阪急百貨店、東宝などの創業にかかわる。阪急電鉄沿線で都市開発、流通事業を進め、日本における私鉄経営のモデルをつくり上げた。「大衆本位」という経営理念を貫き、それまでのホテル業界や映画・演劇界などのあり方を大きく変革し、今日の日本人の都市型ライフスタイルの原型をつくった。さらには、東京電燈の経営を再建し電力業界でも指導的役割を果たし、戦時期には商工大臣として統制経済に反対した。小説を書き観劇を楽しむ文化人で、茶の湯にも一家言を有していた。84歳で死去。
「よい品をどんどん安く」という明解な旗印を掲げ、戦後日本の流通革命を先導した中内功。その事績をマーケティング研究の第一人者が読み解く。
中内功
[1922~2005]
大阪府に生まれる。薬局を営む父の仕事を手伝いながら、学業に励む日々だったが、日本が太平洋戦争に突入し、1943年、入隊を余儀なくされる。激戦地で壮絶な体験に遭いながらも、23歳で復員。その後、ダイエー薬局を開店、「よい品をどんどん安く」という明快な旗印を掲げ、事業を急速に拡大した。流通革命を先導し、日本の小売業界の発展に大きく貢献したその業績に敬意を表する経営者は数知れない。晩年には流通科学大学を設立、教育活動にも心血を注いだ。83歳でその生涯を閉じた。
一代で世界のホンダを創り上げた豪快な天才・本田宗一郎の核心とは何か。まったく新しい視点から、その思考、発想、普遍性を読み解く!
本田宗一郎
[1906〜1991]
静岡県に生まれる。尋常高等小学校を卒業後、自動車修理工場で修業。自転車用補助エンジン、通称「バタバタ」などアイデアあふれる商品で成功。1948年、本田技研工業株式会社を設立。「ドリーム号」「スーパーカブ」などを開発、英国マン島T・Tレースで輝かしい戦績を残すなど、世界一の二輪車メーカーに育て上げた。その後、四輪車に進出。「シビック」などの個性的なヒット商品や低公害のCVCCエンジン開発に成功、F1での初優勝を果たすなど、独創的な社風で知られる世界的企業を築き上げた。日本人として初めて米国の自動車殿堂入り。84歳で死去。
日本人の生活に不可欠な数々の商品は、どのようにして生まれマーケティングされたのか。専門経営者の核心を重層な資料から読み解く!
丸田芳郎
[1914〜2006]
長野県の自然豊かな更級郡信田村(現在は長野市に編入)に生まれる。桐生高等工業学校(現群馬大学)で応用化学を専攻し、研究者としての道を歩み始める。1971年、花王石鹸株式会社の社長に就任。「ソフィーナ」「バブ」「メリーズ」「アタック」「エコナクッキングオイル」など、革新的ヒット商品を次々に発売。その経営者としての歩みは、日本人の生活スタイルに大きな変化をもたらす流れと軌を一にした。1985年には社名を花王石鹸から花王に変更。戦後を代表する社内昇進の専門経営者型社長として、経営理念にも深く独特な哲学を持ち存在感を放った。91歳で永眠。
ゼロから世界のソニーを創り上げ、数々の記憶に残る商品を産み出した天才発明家にして企業家の核心を、知識創造理論で詳細に分析する!
井深 大
[1908〜1997]
栃木県に生まれる。子供の頃から機械好きで、早稲田大学時代には優秀な若手研究者として頭角を現す。終戦後の1945年に東京通信研究所を設立。翌年5月、生涯のパートナーとなる盛田昭夫と東京通信工業を設立し、ソニーへの第一歩をスタートさせた。日本初のテープレコーダーやトランジスタラジオを商品化。その後もトリニトロン・カラーテレビなど世界初のイノベーションを数々成功させ、あえて困難に挑戦し、みずから道を切り拓き、新しい価値を創造するというソニーの企業姿勢を築いた。教育関係や幼児教育にも強い関心を持ち、多方面で活躍。89歳で永眠。
大原美術館開館などの社会事業家として知られる企業家の真価を、戦前日本の紡績・織物業の研究を長年続けてきた研究者が経営史学の視点から追究する。
大原孫三郎
[1880〜1943]
岡山県に生まれる。1897年、東京専門学校(現早稲田大学)に入学するも、その学生時代に放蕩生活を送り、郷里に戻ることになる。やがて使命感に目覚め、父・孝四郎が経営する倉敷紡績で諸改革に着手、1906年、社長に就任、事業を承継した。以降、大企業に発展させる中で「労働理想主義」の具現化を目指し、労働環境の改善にも尽力した。1926年、倉敷絹織(現クラレ)を設立、銀行や電力会社の経営も手がけ、中国地方の発展に大きく貢献した。大原美術館を開館するなど、社会事業家としての先駆的活動は今も高く評価されている。62歳で死去。
誰でも知っているチキンラーメンとカップヌードル。そのイノベーションの意義と手法、ビジネスへの教訓を、経営学的分析から読み解く。
安藤百福
[1910〜2007]
幼少期から身近に商売のある環境で育ち、22歳で起業し独立。若くして財を築く。戦中、戦後も様々な事業を手がけるが、理事長をしていた信用組合が倒産し、無一文になったことを機に、チキンラーメンの開発に着手。翌年、48歳の時に完成し爆発的なヒット商品となる。61歳で究極の加工食品と呼ばれるカップヌードルの開発に成功。世界的に拡大する新たな産業の礎を築くとともに、食生活、食文化に多大な影響を与えた。日本のみならず海外でも高い評価を得る発明家にして企業家。私財を投じて食文化やスポーツの振興にも尽力した。96歳で永眠。
常識の壁を破る絶対的努力、創意工夫の連続。日々の経営の中で「事業奉仕即幸福」の信念を貫き、心友・松下幸之助もその「熱心さ」に惹かれた江崎グリコ創業者の経営と人生の軌跡。
江崎利一
[1882〜1980]
現在の佐賀県に生まれる。その地(現佐賀市蓮池町)で少年期より家業の薬種商などに従事する。有明海沿岸でカキの煮汁と出会い、カキに含まれるグリコーゲンの事業化を決意する。不屈の精神で邁進し、みずから創製した栄養菓子「グリコ」の事業化に成功、以後も創意工夫の連続によりヒット商品を開発、「一粒300メートル」などの名コピーの創案者としても広く知られた。太平洋戦争による工場全焼等の艱難を乗り越え、戦後の事業再建を果たしてからも90歳まで社長を務め、現在、グローバルな事業展開を加速する江崎グリコの経営の礎を築き上げた。97歳で永眠。
今日では生活に欠かせない宅急便は、稀代の理知的経営者のアイデアと、官との戦いの中から生まれた。その軌跡を経営学的に読み解く。
小倉昌男
[1924〜2005]
東京都渋谷区に生まれる。1947年東京大学経済学部卒業。1948年、父の康臣が経営する大和運輸(現ヤマトホールディングス)に入社。1971年社長に就任。宅急便を開発し、1976年に営業開始。日本人の生活スタイルとビジネス環境を画期的に変化させた。宅急便の開発で運輸省や郵政省と闘った経験から、規制緩和の実行者・論客としても知られ、行政改革審議会などの委員も務めた。1995年ヤマト運輸会長を退任。晩年は1993年に私財を投じて設立したヤマト福祉財団の理事長として活動し、障碍者福祉の世界に経営のノウハウを導入するなど新たな活躍をした。80歳で永眠。
※著者肩書は2017年末時点のものです。