私が商売をいたしましてから一貫して努めてまいりましたのは、私はほんとうに、これは心から申しあげられるのでありますが、「松下電器の繁栄ということと、わが業界の繁栄ということ、これを常に同時に考えて仕事をしなければならない。業界なり、その他経済界がどうあろうとも、松下電器だけが繁栄するということは、結局において、許されないことである」。常にこの観点に立って、共存共栄の実を中心といたしまして、いっさいの施策をしてきたと思うのです。
業界の繁栄のために働かせてもらってこそ生きがいがあるんだ、それを無にして何の生きがいがあるかというように、私は考えてまいったのであります。
大正14年に日本でラジオ放送が開始され、ラジオ受信機が各家庭で普及し始めたのに伴って、松下電器でも昭和六年にラジオを開発、いよいよこれから大いに生産、販売しようとしていた昭和7年のことです。
当時、"特許魔"といわれる発明家がラジオの重要部分の特許権を所有していました。高周波回路で多極管を使用するラジオの製造はすべてこの特許に抵触するため、各メーカーは性能のよいラジオをつくるのに大きな支障を受け、いくつかのメーカーとの間ではトラブルも起きていました。そして、このことが業界の発展を著しく妨げることにもなっていたのです。
事態を憂慮した松下幸之助は、こういう状況は業界にとっても、また社会全体としても好ましくないと考え、意を決してその発明家のところに出向いて、「特許を売ってほしい」と申し出ました。しかし、その人はまったく応じようとしません。 その少々傲慢な態度に怒りを感じながらも、幸之助は我慢づよく交渉を重ね、結局、当時のお金で二万五千円という大金で買い取ることになったのです。その頃の松下電器の規模からすると、法外の金額でした。
そして特許を買い取った翌日、幸之助はこれを同業メーカーが自由に使えるよう、無償で公開する旨を新聞で発表したのです。
それは幸之助に、「ラジオの普及は文化の向上につながることであり、必要な技術を必要な人が使えないのでは、日本の文化の発展も、また業界の繁栄もありえない。特許は業界みんなで使うべきもの、業界の発展のために使われるべきものだ」という信念があったからです。
大金を投じて得た特許を無償公開するというきわめて異例の行為を、いわば町工場あがりの小メーカーにすぎない松下電器が行なったということで、世間は非常に驚き、賞賛しました。"業界始まって以来の大ホームラン"と業界各紙で取り上げられたほか、ラジオ業界の発展に多大なる貢献をしたとして、各方面から感謝状や牌が贈られたのです。
(月刊「PHP」2009年10月号掲載)
松下幸之助とPHP研究所
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