私は、やはりものには限度というものがあると思うんですね。時機と限度というものがありますから、成ることでも、限度を超えれば成らない。成ることでも、時機を失ったならば成らない。そういう出処進退の大切さというものをよく知らないといけないと思うんです。 会社でも国でも個人でも、いちばん大事なことは出処進退を誤らないことである。それが欲にぼけるとか欲望に走るとかしますと、出処進退の正しい姿を忘れてしまう、分からないようになってしまう。そして、言うてはならんときに言うてみたり、行なってはならないときに行なってみたりして、みずからを破壊する、人をも傷つけるというようなことがあろうかと思うのであります。そういうことが非常に大事な問題やないかと思います。

 創業後7年経った大正14年頃のことです。商売が軌道に乗り始めた当初から、松下幸之助は販路を求めて月に一度は東京に出向き、問屋を訪ねてまわっていましたが、当時は東京出張所も設けられ、関東方面への販路も整いつつありました。

 ある日、幸之助が東京出張所へ行ったところ、ラジオの真空管が置いてありました。出張所の責任者に聞くと、「これは東京で最近ボツボツ売れ出しました。大阪でも売ってみてはどうでしょう」と言います。幸之助は「これは面白い」と思い、すぐにその真空管を製造している工場と交渉するよう責任者に命じました。そして、千個分の代金を先渡しするかわりに、一個でも多く生産して、極力大阪へ回してもらうよう依頼しました。

 真空管は大阪の問屋にも歓迎され、多くの注文を受けたので、松下電器はわずかの間に大きな利益をあげることができたのでした。

 しかし、そうした中で真空管を製造するところが増え始め、製品が次々に市場に出てきて、値段も次第に下がってきました。その状況を見た幸之助は、真空管の販売中止を決断したのです。

 「まだ売れているものをやめてしまうのは、たしかに惜しい。だが、このままでは松下電器が利益をあげる余地は少なくなっていく。ここは現状にとらわれず、先を見て判断しなければならない。それに、松下の仕事は、本来、配線器具の製造販売だ。この真空管の販売はちょっとした思いつきで始めたものなのだから、これ以上欲張ってはいけない」と考えたからでした。

 こうして幸之助は、得意先の問屋を全部、製造工場に譲り、真空管の販売からあっさり手を引いてしまいました。ところが、その4、5カ月後、ラジオ部品の値段がいっせいに下がったのです。そのため、真空管に関わっていた多くの工場や商店が窮地に陥ったのですが、すでに手を引いていた松下電器は何の損害も受けなかったのでした。

 幸之助は、「物事の出処進退が大事であるとか、何事にも適度というか、ほどほどが肝要であるといわれるが、そのことの大切さをあらためてこのとき考えさせられた」と述べています。

(月刊「PHP」2008年8月号掲載)

松下幸之助とPHP研究所

PHP研究所は、パナソニック株式会社の創業者である松下幸之助が昭和21年に創設いたしました。 PHPとは、『Peace and Happiness through Prosperity』の頭文字で、「物心両面の調和ある豊かさによって平和と幸福をもたらそう」という意味です。

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