私も商売をやっているから、いつ失敗をするような目にあわんとも限らない。そのときに、はたして家内の持ちものまでそっくり債権者に提供するだけの潔いことができるだろうか、と自問自答してみた。いや、おれだったらそこまではできんかもわからん。そう思うと、なるほど山本さんはえらい男だなあと頭が下がるのであった。そうして山本さんの成功のもとは、本人も言っている通り、いっさいをそういうふうに、公明正大にやるところにあるのだということを、私はそのときに非常に教えられた。

 自分もこれから事業をやっていくについては、いろんな困難な問題にぶつかることがあるだろう。自分も山本さんのような潔さ、責任感というものを養っていかなければならないと思ったのであった。

 大正12年、松下幸之助が開発した砲弾型電池式自転車ランプは、思い切った実物宣伝販売が功を奏し、順調に売上げを伸ばしつつありました。そんななか、大阪の山本商店というところと話がまとまり、大阪府下の販売を一手に引き受けてもらう代理店契約を結んだのです。

 山本商店は、本来、化粧品の製造卸とその輸出を業としており、大阪では信用も高く、当時は松下電器よりもはるかに大きな規模を誇っていました。

 そして、この山本商店の主人・山本武信氏は、幸之助より5つ、6つ年上で、10歳前後から船場の化粧品問屋に奉公し、たたき上げた根っからの大阪商人でした。幸之助は、山本氏との取引を通し、その度胸のある商売の進め方や商売に対する姿勢、信念の強さなどさまざまな面で啓発され、たいへん鍛えられたのでした。

 なかでも幸之助がかくありたいと心に銘記したのは、山本氏が、かつて第一次大戦後の恐慌に直面して事業が行き詰まり、銀行に大きな借金ができてしまったときの話でした。

 そのとき、山本氏は、手形が不渡りになる数日前に、自分の私財を文字通り一切合切投げ出して、借金のカタにあてたのです。財産はもちろん、奥さんの指輪なども含めて、何から何まで全部出した。これには銀行のほうが驚き、「あなたへの貸し金はもちろん回収しなければならないが、そこまでされなくてもよろしい。奥さんの私財などはどうかお持ち帰りください」と、かえって恐縮したばかりか、山本氏の事業再建を応援し、再び快く貸付に応じてくれたというのです。

 幸之助は山本氏のその潔い態度、責任感に深く感銘すると同時に、"いざというときには、男子の本懐としても、また商人の魂としてもかくあるべし"と、大いに共鳴したといいます。

 山本氏とはその後、商売に対する考え方の相違もあって、取引は結局3年余りで終わってしまいましたが、幸之助は氏を「商売のコツを教わった恩人」として、「もしも山本さんと取引をしなかったら、私の商売人としての目覚めはずっと遅かっただろう」と語っています。

(月刊「PHP」2008年6月号掲載)

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