人間の心には、愛憎の念とか損得の念とかさまざまな欲望があります。ですから、そういったものにとらわれて他人を見れば、自分のもてるものを奪おうとしているのではないか、自分の立場をそこなおうとしてるのではないかという疑いの気持ちも起こってくるかもしれません。しかし、そうした不信感から生まれてくるのは、不幸で非能率で悲惨な姿以外の何ものでもないという気がするのです。
大切なのは、やはりまず信頼するということ。信頼することによってだまされるとか、それで損をするということも、ときにはあるかもしれません。かりにそういうことがあったとしても、信頼してだまされるのならば自分としてはそれでも本望だというぐらいに徹底できれば、案外人はだまさないものだと思います。
大正6年の師走に入って思わぬところから扇風機の碍盤の注文が入り、なんとか危機を脱した松下幸之助は、電気器具の製作に本腰を入れて取り組みたいと、翌7年3月、阪神電車野田駅の近くの大開町に家を借り、松下電気器具製作所を創立しました。その家は2階建てで、前の家に比べると約3倍の広さがありました。2階を住居、1階の床を落として工場にしました。
製作したものは引き続き碍盤、そして新たに「改良アタッチメントプラグ」(通称アタチン)。それは古電球の口金を利用したものでしたが、当時としては斬新なデザインで、しかも市価より3割ほど安かったので、よく売れました。
幸之助は妻のむめの、義弟の井植歳男とともに夜遅くまで作業しても注文に追いつかず、初めて4、5人の人を雇い入れることにしました。続いて作ったのが「二灯用差し込みプラグ」、これもアタチンにもまして好評を博し、その年の暮れには従業員も20人ほどになっていました。
その頃のこと。碍盤やソケットにはアスファルトとか石綿、石粉などを混ぜ合わせて作るいわゆる練物が材料として使われていたのですが、その製法を新しく入ってきた従業員に教えるかどうかという問題が出てきたのです。というのは、当時どの工場でもその製法は秘密にして、限られた身内の者にしか教えていなかったからです。
しかし、幸之助は「自分の工場で働いてくれるいわば仲間に対し、そのような態度をとってよいものだろうか」と考え、結局、雇い入れた人たちにも適宜製法を教え、担当してもらうことにしたのです。そのやり方について、同業者から、「製法が外に漏れる危険があるのではないか。やめたほうがよい」という忠告がありましたが、その仕事が秘密の大切な仕事であることを話しておけば、人はむやみに裏切るものではない、というのが幸之助の考え方でした。
その結果は、その製法を外に漏らす者もなく、何よりも従業員が意欲を持って取り組み、工場全体の雰囲気ものびのびと明るくなって、仕事の成果が上がるようになったのです。
(月刊「PHP」2008年3月号掲載)
松下幸之助とPHP研究所
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