僕は自分で独立して電気器具製造の事業を始めましたが、自分の意志だけで事業を始めたのかというと、そうともいえない。自分の意志以上に、何か見えない大きな力、運命の力というべきものがあってこの事業を始めたのだ、と感じてきたのです。ですから、非常な困難に直面したこともたびたびありますが、僕の意志は基本的に動揺しなかったですね。
もちろん個々の問題については心配で晩も眠れないということが再々ありました。けれどもそこまで行き着くと、“いや、これは自分の運命だ。だから、これよりほか仕方がない。これで倒れれば仕方がないのだ”というような諦めというか、そういうものが生まれてきたのです。それで勇気も出て、動揺も収まって、仕事に没頭することができたと思うのです。
松下幸之助は、みずから開発し、自信をもって見せた改良ソケットを主任から、「これは使いものにならんね」とすげなく言われ、悔しい思いをしていた頃、工事人の目標であった検査員になりました。22歳の若さでの異例の昇進でした。
検査員の仕事は、工事担当者が各需要家のところに配線の仕事に行った翌日、うまくできているかどうか検査に回ることでした。まだ電気の知識にも乏しい時代、一般の人には電気は怖いものだという観念がありました。ですから、「きょうは検査にまいりました」と言うと、「ああ、お若いのに検査員ですか。それはご苦労様です」と敬意を表し、丁寧に応対してくれました。それは自分が偉くなったようで、心地よいものでした。
1日に15軒から20軒くらい見て回るのですが、自分がやっていた仕事であり、またその工事担当者と同僚として一緒に仕事をしてきた関係で、その人の癖や仕事ぶりをよく知っていましたので、要点さえ見れば、だいたいその良否が分かりました。そのようなことで、朝7時に出勤、いろいろと打ち合わせをした後、9時頃に出て、要領よくやると昼には仕事が終わってしまいました。
後は5時まで自由です。当時、映画は活動写真といっていた時代ですが、映画館には検査で出入りするので顔パスで入れました。ですから、映画を見たり、会社に帰って雑談をしたりで時間をつぶし、最初は楽しくてしかたがありません。ところがしばらくすると、何か空虚なものを感じ始めました。半日勤務して後は時間を空費している、そういう生活に耐えられなくなってきたのです。
この検査員生活の空しさ、肺尖カタルにかかってから将来に一抹の不安を感じ、妻と一緒に何か仕事ができないかと考え始めていたこと、主任に認められなかったけれど、自分の考案した改良ソケットがいいものであると信じていたこと、等々があいまって、幸之助は思い切って改良ソケットを作ろうと決意し、大正6年6月、辞表を提出、大阪電燈を退職したのです。もしこのような出来事がなければ幸之助は大阪電燈の技術者としてまた違った人生を送っていたかもしれません。
(月刊「PHP」2008年1月号掲載)
松下幸之助とPHP研究所
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