そこの店の旦那さん、奥さんの物腰、格好、態度というもの、また番頭さんなり店員を使う態度が、配線の仕事をしているうちに手に取るように分かる。

  ああなるほど、この前行ったところの奥さんと、ここの奥さんとはだいぶ違うな。この前の奥さんは、きれいな人やったけど偉そうにしとった。ここの奥さんはあんまりきれいやないけれども(笑)、言葉がていねいで美しさがある。言葉の美人やなというように、知らず識らず社会学が身についたわけですな。

 私はそういう仕事に何年間か従事して、世相、人心の機微のいくぶんかが分かった。そういうことをせずして、一貫してずうっと大きくなったら、そういうことはあるいは分からんかもしれない。したがって自分が商売をしても、人を使うコツが分からんかもしれない。

 松下幸之助が大阪電燈幸町営業所に内線見習工として採用された頃は、まだ社会に電熱器やラジオ等の電気器具もなく、人々はわずかに電灯によって電気に触れているような状態でした。その電灯の普及もまだ十分とは言えず、大阪電燈は電灯の取り付けを積極的に進めていたのです。

 幸之助の最初の仕事は屋内配線の担当者に従って、丁稚車に電線や碍子などの材料や道具を積んで工事先を回り、担当者の仕事を手伝うことでした。幸之助は助手をつとめながら、配線の技術や進め方を1つ1つ覚えていきました。

 1、2カ月もすれば、工事も担当者に見てもらって自分でするようにもなり、担当者から「君はなかなかうまいな。いい工事人になれるぜ」とほめられるまでになっていました。3カ月後に新設の高津営業所に転勤し、若くして担当者に就任。

 それから22歳で退職するまでの約6年半、小は一般住宅や店舗、大は劇場や工場にいたるまでさまざまなところに赴き、電気の工事をすることになったのです。その中には、当時開設された浜寺海水浴場のイルミネーション工事、新世界の通天閣の電灯工事、あるいは南の演舞場の新築工事など、大工事も含まれていました。

 その当時、人々にはまだ電気は怖いものという意識がありました。ですから、幸之助が「電灯を引きにまいりました」と言うと、「若いのに偉いですね」と尊敬の眼差しで見られたものでした。

 日に5、6軒の家庭や店を訪ねるのですが、風呂場が3つもある裕福な家もあれば、長屋の貧しい家もありました。配線を終え、「後はあさって電球を持ってきて検査し、点灯します」と言うと、「ああそうか」と一言の礼もなく、そっけない人もいれば、「ああ、どうもご苦労さんでした。電灯をつけてもろてありがとう。あさって点きますか。楽しみやな」と非常に喜んで、祝儀をくれるところもありました。

 そのようにさまざまな家庭や商店の人々に接し、世相や人情の機微を知ったことが、後年自分が商売をする上で、「大変役に立った」、「一種の学問と言えば学問になった」と言うのです。

(月刊「PHP」2007年9月号掲載)


松下幸之助とPHP研究所

PHP研究所は、パナソニック株式会社の創業者である松下幸之助が昭和21年に創設いたしました。 PHPとは、『Peace and Happiness through Prosperity』の頭文字で、「物心両面の調和ある豊かさによって平和と幸福をもたらそう」という意味です。

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