親から離れて奉公し、そして初めて5銭という白銅を俸給としてもらった。私はその時分に貧困のどん底に育っておりましたから、5銭の白銅というものが、私には非常に光り輝いたものであったわけですね。そこで、働くということに対する喜びと申しますか、また俸給をもらう喜びと申しますか、そういうものが非常に深く自分の頭に入ったと思うんです。
これは一面考えてみますと、やはり非常に窮乏の生活をしておったということが、そういう大きな喜びに変わったといえると思うんです。これがうちで相当恵まれた生活をしておれば、それだけの大きな感激はそのときに覚えなかったんやないかという感じがいたします。
松下幸之助が91歳のときのこと、PHP研究所が主催する経営ゼミナールに突然顔を出し、短い講話をしたことがありました。その話の後の質疑応答の時間に、ある受講生が、「松下さん、これまでの人生の中でいちばんうれしかったことは何ですか」と尋ねました。それに対し松下は「丁稚奉公をして初めて5銭白銅貨をもらったことですな」と答えています。
91年の人生の中でいちばんうれしかった5銭白銅貨の思い出とは何なのでしょうか。
幸之助は9歳のとき、郷里の和歌山を離れ単身大阪に出てきました。そして、初めての奉公先として入ったのが南区八幡筋(現在の中央区西心斎橋2丁目)にあった宮田火鉢店。そこは、火鉢を製造し、販売をしている店でしたが、幸之助の仕事は、朝早く起きて店の掃除や子守をして、その合間にとくさで火鉢を磨くというものでした。
それまでは母親と寝起きを共にしていたのですが、その日から小僧として店で一人で寝なければなりません。寝床に入ると優しかった母親を思い出し、恋しさと寂しさで涙が次から次にあふれ出て、仕方がありませんでした。
そんな日が10日あまりも続いた頃、「幸吉、ちょっとおいで」と親方から呼ばれ、初めて給料をもらったのです。それは白銅の5銭貨幣でした。幸之助は非常に驚きました。というのは、家にいたときは、学校から帰ってくると、時どき母親がおやつ代わりに一文銭をくれました。それで飴玉が1つか2つ買うことができました。それが唯一のおやつで、たいへん楽しみだったからです。
子供心に"これで飴玉がどれだけ買えるのか。たいへんなお金をもらったものだ"と心が躍りました。それで俄然元気が出て、夜に涙もあまり出なくなり、奉公することが喜びに変わっていったというのです。
松下はこう言っています。
「人間というものには、やっぱり困難もまたときには非常に大事なものです。ありがたさは、つらいことや困難なことを味わってみないと分かりませんね、本当は」
(月刊「PHP」2007年5月号掲載)
松下幸之助とPHP研究所
PHP研究所は、パナソニック株式会社の創業者である松下幸之助が昭和21年に創設いたしました。 PHPとは、『Peace and Happiness through Prosperity』の頭文字で、「物心両面の調和ある豊かさによって平和と幸福をもたらそう」という意味です。
■月刊誌「PHP」
お互いが身も心も豊かになって、平和で幸福な生活を送るため、それぞれの"知恵や体験を寄せ合う場"として昭和22年から70余年にわたり発刊を続け、おかげさまで多くのご支持をいただいています。