父が失敗せず、家業を守っていたら、おそらく僕も中学校に行っていただろうと思います。そうなると、僕の運命はまた変わっていたに違いありません。だから、もし、僕が成功したといえるのなら、父が失敗したため、といえるかもしれません。父は、死ぬまで、3円も持ったら、もう相場をやりました。なんとかして損を取り戻そうと思ったんでしょう。いまでもありありと憶えています。母親がしきりに止めています。二人はよくケンカをしていました。そのうち3円のカネも工面できないほどになってしまいました。食うに困って、父は大阪に出て勤めることになったのです。投機、思惑、バクチを、僕が大きらいなのは、子供の頃の悲しい思い出がハダにしみついているからだと思っています。

 松下幸之助が生まれた年、明治27年に起こった日清戦争は、翌年には日本の勝利で終わり、日本は新しい領土と賠償金などを得て、好景気に沸きました。

 父親の政楠は村会議員を務めたこともある小地主でしたが、豪商・紀伊国屋文左衛門に代表される和歌山人気質、冒険心や豪快さを持ち合わせていたのでしょうか、一攫千金を夢見て、当時活況を呈していた米相場に手を出し始めたのです。その結果は惨憺たるものでした。またたくまに財産はもちろん家まで手放さなければならなくなったのです。このとき、幸之助、4歳。

 父母、5人の姉、2人の兄、そして幸之助の10人の家族は、夜逃げ同然に家財道具を荷車に積んで6キロほど先の和歌山市内に引っ越したといいます。そこでツテを頼って下駄屋を始めるのですがそれもうまくいかず、2年余りして閉店のやむなきにいたるのです。政楠は収入の道を求めて東奔西走するのですが、一家はだんだん窮乏していきました。その上、市内に移った翌年には次男が、そしてまたその翌年には長男と次女が病で亡くなっています。後年、幸之助はこう記しています」

  「ただでさえ窮乏に迫っているところへかくのごとき状態であるから、父母は精神的にも、財政的にも、非常な打撃を受けたものである。当時の母の愚痴なり、その疲れた姿を思い出すとほんとうに気の毒にたえない」

 このような幼少の頃の体験が大きく影響しているのでしょう、幸之助は投機のためには決して土地や株に手を出さず、経営もみずからの力の範囲で、亀の歩みのように一歩一歩着実に積み上げていく堅実経営をモットーにしてきました。従って、社員にも次のように訴え続けてきたのです。

  「私は世の中には、決してぼろいことはないと思います。濡れ手で粟ということは、実際に許されないと思うのです。やはり働いただけ、それに応じてものが得られる。働かずしてものが得られるということはありえない。それがありえたならば、かえって大きな反動が起きて、得たものをも失うということになると思います」

(月刊「PHP」2017年2月号掲載)


松下幸之助とPHP研究所

PHP研究所は、パナソニック株式会社の創業者である松下幸之助が昭和21年に創設いたしました。 PHPとは、『Peace and Happiness through Prosperity』の頭文字で、「物心両面の調和ある豊かさによって平和と幸福をもたらそう」という意味です。

■月刊誌「PHP」

お互いが身も心も豊かになって、平和で幸福な生活を送るため、それぞれの"知恵や体験を寄せ合う場"として昭和22年から70余年にわたり発刊を続け、おかげさまで多くのご支持をいただいています。

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