第68回PHP賞受賞作
小松崎有美
埼玉県・会社員・40歳
あの日から笑い方を忘れてしまった。一昨年の秋、産まれたばかりの息子に病気が見つかった。「1歳までしか生きられないかもしれません」。医師の言葉は冷静なだけに残酷だった。
息子の病気は遺伝子の変異が原因で、筋肉が動かなくなる疾患だった。2万人に1人が発症し、根本的な治療法はない。もちろん薬だって。いてもたってもいられず、すぐさまインターネットで調べた。「何もしなければ生涯歩けない」「何もしなければ呼吸ができない」。その「何もしなければ」が最終的に行き着くところは、死。
それからというもの、すっかり無気力になった。家にいてもただただ苦しいだけ。だれにも会いたくないし、何もしたくない。呼び鈴が鳴ると留守のふりをして、カーテンも閉めっぱなし。それでもインスタグラムには連日、出産を祝うメッセージが届く。この状況のどこがめでたいというのか。私はたまらずアカウントを削除した。まるで自分の記憶からすべてを消し去るかのように。
やがて生後100日を迎え、病院から自宅に治療の場が変わった。だが場所が変わっても状況が変わるわけではない。相変わらず痰の吸引が不可欠で、昼も夜もないような生活。
「おれが代わるから寝ろよ」。吸引の手を制止する夫の目にも、うっすら隈ができていた。そんな状況をよそに、親戚からは何足もベビーシューズが届く。水色のマジックテープ、ヘリコプターのワンポイント。だけどこの子は歩けない。歩けないんだ。そんな悔しさがどうしようもなく、ここにある。「こんなものいらない」。私はそれらを押し入れにしまった。アルバムや卒業証書が眠る押し入れ。息子の靴も、もはや過去のものになろうとしていた。
あの子には今しかない
そんな重い空気の中、母が「気分転換でもしてきたら」と言い出した。ひさびさの外出。どこに行こうか。何を食べようか。でもいざ外に出ると、公園でベビーカーを見るなり息子のことが頭をよぎり、結局10分足らずで帰宅してしまった。「あら、もう帰ってきたの?」ガラガラを持つ母が目を丸くする。私が「ちょっと心配で」と言うと「あなたもすっかりお母さんね」と目を細めた。
しかし次の日も「ちょっと散歩でもしてきなさい」と母。「行ってきます」。言われるが まま外に出る。しかし公園のベンチに座り、ただただ時間だけが過ぎてゆく。それでも母は笑って「おかえり」と迎えてくれた。母がいるだけでひとりじゃないと思えた。なんでうちの子は。なんで。なんで。そう思いながらも、最後は、息子のいる幸せをかみしめることができた。
けれど9カ月のころ。息子の呼吸が安定せず、再入院することになった。「ひょっとしたら1歳まで」。もたない。医師の言葉にそう思った。私は帰宅するなり、母の胸でわんわん泣いた。「そんなに泣くんじゃない」。母が叱るように言った。いつも明るい母の、いつになく悲しそうな声。母は続けた。「あなたはいつだって泣ける。この先そのことで取り乱すこともできる。でもあの子は違う。今しかないの! だからあの子の前では絶対に笑っていなきゃだめよ!」母はそこまで言い切ると、最後、「だから泣いてちゃだめよ」と声を震わせた。母がこっそり流す涙は、頬の外側よりも、心の内側を静かに流れる気がした。
笑顔で息子の前に
それからというもの、何かにつけて母は私を笑わそうとした。病室でうつむいていると「えいっ!」と脇の下をコチョコチョ。またあるときは全力でにらめっこ。その変顔のレパートリーはもはや芸人レベル。「あなたが喜ぶように鏡の前でこっそり練習してるのよ」。茶目っ気たっぷりに笑う。その表情が本当にやさしくて、私は笑ったあとで、やっぱり、泣いてしまった。
そんな紆余曲折を経て、息子は1歳を迎えることができた。今でも病気のことを考えると胸が苦しくなる。管だらけの体を見ても、蚊の鳴くようなか細い声を聞いても。いつだって息子の人生には病気が見え隠れする。だけど泣いているわけにはいかない。今はにらめっこをしなくても笑える自信がある。くすぐられなくても笑顔を見せる自信がある。そう思えるのはすべて母のおかげ。「子供の前では笑顔でいなさい」と言ってくれた母のおかげだ。
今日も病室の前で深呼吸。とまれ、時間。湧くな、さみしさ。笑って、私。そんな気持ちで息子に目をやると、なぜだろう、ちょっとほほえんで見えた。