第67回PHP賞受賞作

天宮清名

埼玉県・パート・45歳

今から9年前、36歳で私はがんになった。どこも痛くないし、体調も悪くなかったが、自分で見つけた2センチほどのしこりはがんだった。

2人に1人はがんになる時代だと知ってはいたが、60代の両親もまだ大病を患ったことがなかったし、まさか30代半ばでがんになるとは思ってもみなかった。告知を受けた日のショックは、思い出すと今でも気分が悪くなるくらい大きなものだった。

告知されてから2週間は、それまでの人生で1番死について考えた。こんなにもあっけなく突然死に近づいてしまうのかと思うと、心残りなことがたくさん出てきた。なかでも当時小学2年生だった息子の成長を見られないことが、何よりも悲しかった。私は若年性のがんは進行が早いに違いないと思い込み、もう自分は助からないのだとあきらめかけていた。

家族に迷惑をかけたくない。特に、まだ幼い息子に母親が死んでいくところを見せたくない。そもそも息子に病気のことを知られたくないと思い、しばらくのあいだは隠していた。

だが、入院する前には病気になった事実だけは伝えざるを得ない。どのように、どのくらい話すべきなのかを悩んでいた。これからのことを考えると食欲もなくなり、10日間で5キロもやせた。ストレスではなく、病気のせいでやせたのではないかと疑い、またさらにやつれていった。

「りゅうちゃんが治すから、大丈夫だよ!」

ただ、息子には気づかれていないと思っていた。息子の前ではいつも通りの明るいおかあさんでいるし、夕食時はおかずを大皿に盛っているので、私があまり食べなくても気づいていないはずだと思っていた。いつものように学校から帰ってきた息子と買い物に出かけるため、マンションの地下駐車場におりたときのことだ。息子がふいに言った。

「おかあさんはがんなの?」

がんの告知を受けたときよりもびっくりした。おどろきすぎて何も言えずにいると、息子は「がんって、からだじゅうに広がっていくの?」と聞いた。どうしてそんなことを知っているのかと問うと、私の通っている病院が「がんセンター」だから、たまたま夕方のニュース番組でがんの特集をしているのを見たのだと言った。

私は「そうだよ。おかあさん、がんになっちゃった」と言ったはずだ。正確に覚えていないのは、どう答えたのかを思い出せないほど緊張しながら答えていたからだ。息子に余計な心配をかけたくなかった。

すると息子は両手を大きく広げて、「大きくなったらりゅうちゃんが治すから、大丈夫だよ!」と、ニッと笑った。そして、広げた手を翼にして、「ブーン」と走り始めた。

私は飛行機になった息子を見て、思わず笑った。息子の無邪気さが微笑ましかった。そして、ずっと迷っていた抗がん剤治療を受けることに決めた。助かるかどうかわからないのに、自分のために高額な医療費を払うよりも、息子の教育費に残したほうがいいのではないか。抗がん剤治療が怖いから、逃げ出したい気持ちと日々格闘していたのだが、息子の言葉でどうすべきかが決まった。息子と、少しでも長く一緒にいたい。そのためにできることはなんでもしようと思った。

親子で前を向いて

1年半におよぶ抗がん剤治療では、髪が抜け、気持ちが悪くなることも多かった。1番副作用が強い日に自宅で倒れてしまい、頭部を切って救急搬送されたこともあった。

息子はどんなときも近くにいた。おどろかせたり、心配させたりしてしまうことも多々あったのに、息子はいつも平然としていた。私が救急搬送された際にも、落ち着いて救急隊に対応してくれて、ほめられたそうだ。あの発言をして以来、母親を支える覚悟をしてくれたのかもしれない。

現在高校生となった息子は、本当に医学部を目指している。あの日の言葉を、息子自身もよく覚えているそうだ。自分なりに決意表明のつもりだったのだが、照れ隠しに飛行機になったらしい。私を励まそうとして言ってくれたのだと思っていたので、本気だったとはおどろきである。

あの日をきっかけに私は前を向き、息子も母親を支えようと強くなってくれた。今、私は無事に寛解し、息子は夢に向かってがんばっている。私たち親子にとって、あの日のことは忘れることのない大切な思い出である。

どん底にいたあの日の私には、今の自分を想像することはとてもできなかった。あの日、かわいらしい笑顔で私に勇気をくれた息子に感謝している。

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