第67回PHP賞受賞作

田中愛子

東京都・大学兼任講師・62歳

27歳の冬、私は5年勤めた会社をやめてアメリカに留学していた。クリスマスムードのニューヨークの街を横目に、バスでTOEFLの試験会場に向かっていると、途中で10代後半くらいの女の子が隣に乗ってきた。

「ハイ」と笑顔を向けられ、私も微笑んだ。「混んでるね」と彼女。「クリスマスだからね。あなたはどう過ごすの?」「特別なことはない」「パーティーも?」「ダンスのレッスンが終わったから家に帰る」。彼女は親元を離れて叔母さんのクリーニング屋を手伝いながらダンスのレッスンをしているそうだ。

「大変だね。つらくない?」「ダンサーになるためならなんでもする。私の人生だから」。

その言葉は、私の胸に突き刺さった。

留学への決意

私は入社3年目のころ、同じような日常が続き未来が描けず焦っていた。そんなとき、ある人の留学体験を聞き、胸の中に眠っていた夢が動き出した。大学時代は親に反対されてあきらめた留学。しかし、社会人になれば、決めるのも実行するのも自分。思いを形にするために、一歩ずつ進むことにした。

情報を集め具体的な計画を立てた。語学留学で英語力に磨きをかけたい。場所はニューヨーク。世界が凝縮されたようなあの街で視野を広げる。期間は1年。資金を貯め、英語の勉強を続けた。準備が整い、あとはいつ会社をやめるか決断するだけというとき、突然迷いが生じた。

そんな私が試される機会が訪れた。次年度にある企画を担当しないかと上司に打診されたのだ。私は思わず叫んでいた。「すみません。来年、会社をやめるので無理です」。

迷いは一気に吹き飛んだ。それから「留学してどうするんだ?」という同僚の批判や、「留学より結婚しなさい」と反対する両親に負けず、慌ただしく準備を進めた。いざアメリカに向かう飛行機の中で、「本当に行くんだ」とやっと実感がわき、うれしさと期待で胸が高鳴った。

ところが実際に行ってみると、ほとんどの留学生は親のお金で旅行気分。比較的高いレベルのクラスに入れたが、1年ここにいてもたいして英語力がつきそうにないと感じた。来ることに夢中だったけれど、それですべてがうまくいくわけではない。当たり前の現実に直面し、途方に暮れていた私は、試験会場に向かう途中で「私の人生」という言葉に出合ったのだ。私の人生に責任を持つのは私自身だ。自分で決めたことじゃないか。

「ありがとう。日本から来ていきづまっていたけど、元気が出た。お互いがんばろうね」。私が差し出した右手を、彼女は力強く握り返してきた。

「努力する人を応援するの」

そこから、何がしたかったのか、何ができるのかを考え続けた。同じ英語教室に通う日本人が、来秋ここを運営する大学の院に入学するために英語力を磨いていると話してくれた。それだ。私は片っ端から興味のある学部の担当者に電話して聴講を希望した。しかし、答えはすべてノー。

その中で、たった一人話を聞いてくれる先生がいた。私は必死に、ここで勉強したことを生かして日本とアメリカの架け橋になりたいと拙い英語で力説した。それなら大学院に入ったらいいじゃないかと彼女は言った。

新しい展開だった。私は課題論文を書き、必要な書類をそろえて提出した。1年分の語学留学費用しか準備がなかったため、あらゆる奨学金に応募した。そして迎えた最終口頭試験。以前入学を勧めてくれた女性がそこにいた。学部長だったのだ。いくつかの質問に答えると、「おめでとう、入学を許可します」とその場で右手を差し出された。しかし、私は硬直した。お金のめどが立っていなかったのだ。「どうしたの? うれしくないの?」彼女の言葉に、私は正直に事情を伝えた。少しの間があって彼女が言った。「奨学金を出しましょう」。

「えっ?」わけがわからず茫然としていると、「奨学金を出してあげるから、がんばって勉強しなさい」と彼女は微笑んだ。「すみません。信じられなくて」。泣きじゃくる私に彼女は言った。「これがアメリカよ。努力する人を応援するの」。

卒業の日、彼女は「やりとげた自分を誇りに思いなさい」と言ってくれた。私の人生は、多くの人との出会いによって支えられている。だから私も、がんばる誰かを応援することで恩返しをしていきたい。

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