第67回PHP賞受賞作

辻 有可

神奈川県・放送作家・41歳

もう東京の仕事は辞めて、地元に帰ろう。あのときまでは本気でそう思っていた。

3年前まで私は、大阪のテレビ局で放送作家見習いとして働いていた。担当はクイズ番組と帯の情報番組。どちらも長寿番組で、この先も安泰だと将来に不安はなかった。私はクイズの作成や情報のリサーチをやっていた。ネットなどを使って番組に必要な情報収集をするリサーチが、放送作家見習いの主な仕事だ。番組は生放送だったため、限られた時間で情報を集めなければならず、スリル満点な毎日を送っていた。

当日に放送内容が決まり、各コーナーに作家とリサーチャーがつく。数名いる作家の中でその日だれにつくのかはわからない。中には厳しい作家もいて、私はそういった人についてしまうことが多かった。ミスをしないのは当たり前、リサーチした内容が指示されたものと違うとこっぴどく叱られる。最初の2年くらいは名前すら呼んでもらえなかった。自分の担当コーナーの放送は、スタジオで作家と一緒に見守るのだが、一度忘れていたことがあり、全力疾走でスタジオへ向かうと「もう来んでええ!」と大激怒された。

そんな毎日でも辞めなかったのは、やはり仕事が好きだったからなのだと思う。名前を呼んでもらえるまで絶対にがんばってやるという意地もあり、必死に仕事に食らいついた。2年ほどするとミスが減って怒られることも少なくなり、ちゃんと名前を呼んでもらえるようになった。ようやく仕事が楽しいと思い始めた矢先、新型コロナウイルスがやってきた。

出演者の数を減らし、スタッフは稼働組と自宅待機組の2チームに分けられた。私は後者だった。最初の1週間ほどは家でのんびり過ごせることがうれしかったが、2週間も過ぎると飽きてしまった。結局、自宅待機が解禁されたのは1カ月後だった。出社できたときは本当にうれしかったが、全員がマスク姿で働いているのはなんとも異様な光景だった。

先が見えない不安な日々

そんな中、担当していたクイズ番組の終了がつげられた。コロナの影響は予想以上に大きかったのだ。ショックだったが、まだ帯の情報番組があると、あまり深刻に考えていなかった。ところが、その情報番組までもが終わることになり、私はついに担当番組をすべて失ってしまった。さすがにこの先どうしようと不安がよぎった。

しかし、行動しなければ何も始まらない。これは新しい一歩を踏み出すチャンスだと考え、私は東京へ行くことを決意した。そのときすでに40歳前。周囲にはおどろかれたが、やるなら今しかないと思い上京した。

なんのつてもないため放送作家の事務所を必死に探し回り、ようやく受け入れてもらえる事務所を見つけた。半分は同情だったかもしれない。すぐには放送作家としての仕事はもらえず主な仕事はほとんどリサーチ。企画案も通らず悶々と過ごす日々。放送作家と名乗るにはほど遠い生活を送っていた。

ほとんど人に会うこともなく、家でひたすらリサーチをする日々。一体いつになったらこの生活から抜け出せるのか。ずっと暗いトンネルにいるような感覚。大阪で働いていたあのころに戻りたい。何度そう思っただろう。先が見えないまま2年半が過ぎ、私は日々の生活と仕事のストレスから突発性難聴を患った。もう限界だ。地元へ戻って一からやり直そう。

このままじゃ終われない

そんな矢先、従妹の結婚式で地元へ戻ることになった。正直、身内とはいえ人の幸せを祝福するような心境ではなかったが、この機会に地元の作家仲間と会って仕事の相談をし、一人暮らしの家も探そうと考えた。そう思うと気持ちが少し楽になった。

結婚式当日、ウェディングドレス姿の従妹は本当にきれいで幸せそうだった。その姿を見ているとおだやかな気持ちになり、心に刺さったトゲが抜けていくような感じがした。挙式会場から披露宴会場へ移動して席につき、事前に渡されたテーブルの配置図に目を通した。そこには出席者の名前が書かれ、名前の上には一言簡単な紹介文が書かれていた。

ふと自分の名前を見たとき、その紹介文に私は胸がいっぱいになった。そこには「多彩な才能をもつ自慢の従姉」と書かれていたのだ。こんな私でも従妹はそう思ってくれていたんだ......そう思うと目頭が熱くなった。「このままじゃ終われない。自慢の従姉になれるよう、もう少しだけがんばってみよう」。

私は地元へ帰ることをやめた。そして、今日も東京でもがいている。せめて何か1つ爪痕を残すまでは、地元へ帰らないつもりだ。

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