第66回PHP賞受賞作
吉田美佳
大阪府・医院受付・62歳
「天職」。その言葉の響きにあこがれていた。平凡な自分でもまじめに生きていたら、いつか天職に巡り合えるのでは......と。
けれど現実はそれほど甘くない。短大を卒業して就職後、数年で寿退社。子供2人を出産、子育て......と専業主婦としての日々を送った。やがて結婚生活に少しずつ暗雲が立ち込め、離婚。子供たちを連れて逃げるように家を出た。
賃貸ハイツの一室を借り、職探しを始めた。40代後半のなんの取り柄もない私が出合った仕事は、近所のスーパーのアルバイトだった。不安だったが、ぜいたくを言っている場合ではない。子供たちとの暮らしをこの手で守り抜いていくんだ。その思いしかなかった。
早朝から午前中いっぱい働き、一度帰宅。午後3時にふたたび出勤して、夜8時ごろまで働いた。
夕食の準備は昼間にできたので、夜は子供たちとゆっくり食事をしながら話せて、ホッとするひとときだった。
職場には少しずつ慣れたが仕事は毎日ハードで、ついていくのがやっとだった。
のんびりと作業しているつもりはなかったが、周囲から見れば仕事が遅いバイトだったことだろう。特に開店直前はみんな大忙しだ。私の指導役でもあるベテランパートのOさんが、見かねて大きな声を出す。
「ちょっと! 何をゆっくりやってんの!?」
「さっさと売り場へ、これを並べてきて!」
ハキハキした声が小さな店中に響き渡る。小気味がいいぐらいポンポンと言われ続ける日々だった。しかし、どんなに厳しく言われても、気持ちが滅入ることは一切なかった。
目の前の仕事を覚えていくこと。お給料をいただいて、毎月の家賃を滞納しないこと。子供たちにちゃんとご飯を食べさせてあげること。そして夏休みにはどこかへ連れて行ってあげよう。頭の中ではそんなことだけ考えていた。
時給780円、一日9時間。1カ月で14万円......。そのころの大阪府の最低賃金時間額は730円台だったと思う。時給780円はありがたかった。
がんばってるのを見てはるんやね
スーパーにはクリスマスケーキやおせち料理など、季節ごとのおすすめ商品があった。お客様に売り出すだけでなく、内部でも各自、「無理のない範囲で」予約のノルマがあった。
6月になり、うなぎの蒲焼きの予約が始まると、更衣室前の壁にスタッフ全員分の到達表が貼られた。引越したばかりで近所に知り合いもいない。自宅用と遠方の実家用で2尾だけの印を自分の名前のところに小さく書いた。
締め切り日が近づき、ほかのスタッフの名前には「正」の文字が増えていく。困ったな......あの表を見るのが心苦しいなぁと思いつつ出勤した朝、到達表を見て目を疑った。私の名前に「正」がたくさん書き足されていた。ほかの人たちと同じくらいの正の数が。たまたま通りがかったOさんに声をかけた。
「これ間違いだと思うのですが......」
「あ、それでいいねんで。私もうノルマの14尾、とっくに達成してるから。余分のはあんたのところへ正つけといた」
なんてありがたいこと......。私は感激して何度もお礼を言った。Oさんは続けて言った。
「私だけと違うよ。ほかのパートさんも何人か書いてはったよ。いつもがんばってるのを、みんな見てはるんやね」
どこで働いても前向きに
働き始めて最初の夏。子供たちを海へ連れて行ってあげたいと思い、自分の部門の社員さんに2日連続の休みをお願いしてみた。「アルバイトさんに連休は......う~ん」と渋い表情だった。やはりダメか......とあきらめかけたとき、Oさんが大きな声で言った。
「いいやんか、連休ぐらい。私が出勤してあげるわ。子供さんたちの夏休みやで」。私は3連休をいただき、子供たちと海へ出かけることができた。旅先での子供たちの笑顔は今でも忘れられない。
それから徐々に仕事に慣れるとともに、パートさんたちの温かさを肌で感じるようになった。お客様もスタッフも家では暮らしを守る同じ立場であり、昭和や平成の時代に食卓を豊かにしてきたのだと私は実感した。
自分にぴったりの仕事がふわりと天から舞い降りてくるわけではない。たまたま働くことになった職場で、私は多くの学びと喜びを授かった。だからこそ、この仕事は私にとって天職だと思えたのだ。
その後、異なる業界で働いている私だが、心の中には前職で得た宝のような温かいものがある。もし恩返しができるとしたら、どこで働いて暮らしていても、胸を張って前向きに過ごす── それに尽きると思っている。