第66回PHP賞受賞作
田村桐子
滋賀県・特別支援学校教員・50歳
「お前は、絶対合格する!」
28年前、教員になりたいという思いとは裏腹に教員採用試験の倍率が高かった時代、私は大学のK先生のもとで、教職の勉強をしていた。
県内有数の進学校に通い、毎日参考書を開いて一日のほとんどを授業の予復習やテスト勉強に費やしていたにもかかわらず、一向に成績が上がらず、すっかり自信をなくしていた私。かろうじて大学に合格し、クラブの人間関係にも恵めぐまれ、自信を取り戻しつつあった大学4年生。
それでも、私は自己肯定感の低い、やや卑屈な学生のままであった。
K先生の人気はすごかった。教職の講義は学生でいっぱいで、個別に行なう小論文や面接指導は、順番待ちがざらであった。
温かな人柄、ジョークやウイットに富んだ表現で魅了する授業、学生の成長を心から願うたしかな生徒指導力、経験や実践に裏打ちされた学校教育への自負心、揺らぐことのない教育者としての信念、あらゆる物事に精通 している知性、そして学生とともに笑い合うことのできる人なつっこさ......。
教職を志すだれをも魅了する人間性を充分に備えたK先生。人気がない理由が見つからなかった。
私は決めたのだった。「この先生に自分をわかってもらいたい! この先生の指導を受けて、教員になりたい!」と。そして私は、K先生に小論文を書いて持って行った。
「お前は、絶対合格する!」
K先生の指導は、「ほめて伸ばす」のではなく、温かさの中にも厳しさを持ち、容赦なかった。
小論文指導では、「なんということを書くのだ! もう一度書き直してこい!」。面接指導では、うつむいて着席する私に、「お前は、引きずられてくる牛か? もう一度やり直し!」。しかし、叱られて伸びることもあるのだ。私は奮起し、小論文は計40回以上、面接も5年くらい受け続けた。
すべて、「この先生についていきたい!」という熱い思いからだ。K先生から「私が君に言うべきことはすべて言った!」と言われるくらい、私は指導を請い続けた。
けれども、何回も何回も教員採用試験を受験しては不合格。「だめ」報告をする私に、K先生は必ず言ったのだ。
「お前は、絶対合格する!」「おかしいなあ、なんでお前が落ちるんだろう......」
大げさだったかもしれない。あるいは、あまりにもへこんでいる私を見かねて言ったのかもしれない。けれどK先生は決して「教員はあきらめたほうがいい」とも、「進路変更したほうがいい」とも言わなかった。この私を信頼してくれている、出来の悪い私を認めてくれる人がいる......。その事実が、私にとっては間違いなく大きなことであった。
今ならわかる。採用試験の不合格が続いた要因は、「自分自身への信頼のなさ」なのだ。もちろん、採用数が極端に少なかったこともあるだろう。しかし、自信のなさが面接などで伝わってしまっていたのだ。そんな私に、なぜK先生は「合格する!」と太鼓判を押してくれたのだろう。何度も不合格通知を受け取っているという事実に直面しても、なお。
見えない可能性を伸ばしてくれた
合格するまでに16年という歳月を経て、やっと悲願の教職に就いて12年が経った今なら、わかる。K先生は、私の「可能性」を信じてくれていたのだ。
そういえば、面接練習において先生はこんなこともアドバイスしてくれた。「私を採用してくれないところなんて、こちらから願い下げ、だぞ」と。
教師の仕事の一つに、「子供の今見えている可能性はもちろん、まだ発掘されていない可能性をも見つけて伸ばす」というものがある。K先生は、すでに大学生だった私の中に可能性を見い出し、信じて伸ばしてくれたのだろう。
私は今、特別支援学校に勤務している。子供たちを引っ張る立場の教師は、明るく、朗らかでいなければならない。自信を失っている暇などない。日々、生徒とかかわり合い、いろいろな壁にぶつかり、少しずつ伸びていく子供の成長に携わっていく過程で、教師も本物の笑顔を手に入れていく。
若いころには、どれだけがんばっても手に入れられなかった「自信」。まだまだ未熟な私だけれども、「こういうものが『自信』で、生きていくうえではとても大切」であるということが、ようやくわかりかけてきている。
K先生は、10年ほど前に亡な くなった。亡くなる3年前に、私はやっと合格報告ができた。
恩師のK先生。今の私を見てくれていますか?