第65回PHP賞受賞作
漆原香里
千葉県・主婦・56歳
「私もあなたと暮らせてよかったと思っているよ」
私が夫に一番伝えたい言葉だ。時は経た ってしまったが、12年前にもらったメールの答えを、今届けたいと思っている。
夫はかつて自衛官で、飛行機の整備をしていた。
今でも鮮明に思い出される、東日本大震災。その日の午前中は次女の中学の卒業式だった。夫は仕事上、子供たちの行事に合わせて休むことがままならなかったため、入学式も卒業式も参加できたことがない。船に乗って、南極や硫黄島など、あちらこちらへの移動が多かったからだ。
震災当日は船にこそ乗っていなかったものの、家から遠く離れた基地で仕事をしていた。当然、次女の卒業式は欠席、数日後に行なわれる長女の高校の卒業式も欠席の予定だった。
午前中の卒業式を無事終え、子供たちと過ごしていたとき、千葉でもあの大きな揺れがきた。あまりのすごい揺れに、みんなで慌ててテーブルの下に潜り込んだ。
そのとき考えていたのは、夫のことだった。日頃から「有事のときはそばにいられないし、連絡のやり取りもむずかしいから」と言われていたので、当然、連絡は取れない。テレビに映し出される津波の映像を見て、娘たちも「パパのところは大丈夫なのかな?」と不安そうに言った。
私も心配で仕方なかったが、子供たちの不安をやわらげようと、「パパはきっと大丈夫だよ。船での勤務で体を鍛えているからね」と、あまり説得力のない言葉を返していた。子供たちもそれ以上口に出すことはなかったが、不安でいっぱいなのは表情を見てわかった。
「『無事だよ』だけでいいから連絡が欲しい」。そう思っていたが、その日、夫から連絡が来ることはなかった。
夫から届いたメール
余震が続き、不安な日々を過ごしている間も、夫からの連絡はなかなか来なかった。
そして一週間後、ようやく夫からとても短いメールが届いた。
「ここにも津波が来た。このあともどうなるかわからないし、連絡もできない。一緒に暮らせてよかった。子供たちを頼む」
メールにはそう書かれていた。まるで遺書のような内容に、私は泣きそうになった。
メールが届いたと知った子供たちが「パパ、何だって? 大丈夫だって?」と聞いてきたが、文面そのものは見せられないので、「大丈夫だけど、まだしばらく帰れないみたいだよ」と伝えた。
子供たちも夫の仕事内容を理解しているので、「そうだよね。こんなときこそ忙しいものね」と納得してくれたようだった。
夫と結婚したときから覚悟していたつもりだった。家にいないことのほうが多かったので、一人で子育てすることにも慣れていたつもりだった。
しかしあのメールを読んだとき、不安で押し潰されそうになった。私は覚悟できていなかったのだ。
だが、いくら娘たちも大きいとは言え、彼女たちを守るのは私しかいない。私は、うっかりすると泣きそうになる気持ちをこらえながら、必死に日々を過ごした。
被災地での覚悟
夫からの連絡は、あのメール以外何もなかった。彼がどんな状態なのかわからないことに不安が増した。しかしニュースで知らされる被害の数々を見ると、大変な状況にいるであろう夫に、私から連絡することははばかられた。
そんな夫がなんとか帰宅できたのは、震災から3カ月後だった。夫の姿を見たら、安心するとともに涙が出てきた。
そのあと、夫からいろいろ話を聞いた。基地内にも津波が何度か押し寄せたときがあり、「もうダメかもしれん」と覚悟したらしい。そして、「なんとか家族に一度だけでも連絡を」と思い、あのメールを打ったそうだ。
また、「一日のほとんどが救助に向かうヘリコプターの整備と燃料補給に費やされた」と言った。
不安を抱きながら待つ私たちもつらかったが、夫のほうはそれ以上につらかっただろうことが感じられた。そのあとも夫は船での勤務で家を離れたため、あのメールについての私の気持ちは伝えられぬまま時が過ぎてしまった。
そして去年、夫は定年を迎えた。今は自宅から通勤できる場所で働き、毎日帰宅できるようになった。
夫と毎日顔を合わせられる幸せを噛みしめながら、私は夫に伝えたい。
「私もあなたと暮らせてよかったと思っているよ。これからもずっと一緒にいようね」と。