第65回PHP賞受賞作

徳田瑞
東京都・編集者・28歳

「あなたのことを、もっと知りたい」。私は母にそう伝えたい。

姉や兄によると、母はいわゆる「毒親」で、毎日のように暴力を振るわれたことを、大人になった今も憎んでいると言っていた。働くことができない母との同居を解消しない私を不思議がっていた。

姉や兄が母を嫌う理由の一つは、気分の浮き沈みの激しいところだ。優しく接してきたかと思えば、別人のように怒鳴られる。そうかと思えば「さみしい」と泣きながら繰り返し訴えられ、寝るときには手をつないでほしいと頼まれた。

母が情緒不安定に陥ったのは、祖母との関係が原因ではないかと私は考えている。祖母の葬儀さえ参列を拒否しようとしたほどだ。叔父だけを優先し、自分をないがしろにした祖母を許さないと打ち明けられたことがある。

最近は「親ガチャ」という言葉も見聞きする。ある動画投稿サイトでは、「毒親への憎しみを捨てる方法」がアップロードされている。姉や兄、私が親ガチャに失敗したのなら、母も同じなのだろう。そう考えるたび、私の心に刻みつけられた母の泣き顔が頭をよぎる。

悲しみを抱えていた母

幼いころ、母は恐怖の権化でしかなかった。機嫌を損ねないよう言葉や話題は慎重に選んだし、悪いニュースが母の耳に入らないよう子どもながらに努めた。

高校生になり母の愚痴を友人に話すとき、私は母を嫌っていた。奨学金とアルバイト代をすべて家に入れ、精神疾患のある母を養っていること、母からの暴力や暴言が絶えないことを知った友人たちは「嫌って当然だ」と口をそろえた。

当時の私は、まさにその言葉を欲していたのだと思う。母が抱えている孤独や不安、悲しみは打ち明けず、自分が受けた仕打ちだけを聞かせていたのだから。

けれど、当時の母と近い年齢になってから、「早く縁を絶ちたい」という気持ちはしだいに消えていった。嫌って当然だと言ってもらえる理由を探すことも、「母への憎しみ」を他人に肯定してもらうこともなくなった。

大人になり危害を加えられる機会が減ったからか、どれだけ時が経っても母の孤独や悲しみが和らいでいない様子を見てきたからなのか。あるいは単に母を憐れんでいるだけなのか。ただ「母のことを理解したい、お互いに苦しかった時期のことを話し合いたい」と強く思っていることは確かだ。

祖母から突き放されて育った母は、子どもとの向き合い方をきっと知らなかった。おびえて暮らしていた私たちも苦しかったけれど、3人の子どもを一人で育てていた母も、不安で押しつぶされそうだったに違いない。

誰にも頼れないまま仕事、家事、育児をすべてこなすのは、どれほど辛かっただろう。督促状が届く日々は、どれほど重苦しく生きにくかったことだろう。そう気づいてから、母への負の感情を整理できるようになった。

ラベリングされた「親子」

世間から批判されてしかるべき親は確かに存在する。しかし、ただ「毒親」と呼ぶだけで背景を理解しようとしなければ、生涯、親を敵対視することになる。わかり合える部分は、ほんとうに存在しないのだろうか。親への憎しみを捨てる方法は、インターネット上にしか答えがないのだろうか。

もちろん、何か事情があったからといって、誰かを感情のはけ口にする行為は正当化するべきではない。私も、母の言動すべてを理解して許すことはできていない。だが、「あのときの言動は許せない、その考えは納得できない」という感情は、誰に対しても抱くものではないだろうか。

「親子」とラベリングされた関係に、社会は過剰に期待していると思うことがある。自らを犠牲にしてでも子どもを優先するべきだ、子どものためなら逆境を乗り越えられるはずだ、産み育ててくれた親に、そのぶん親孝行するべきだ、親の発言には子どもを思う気持ちが必ず含まれているはずだ――こんな具合だ。こうした社会の期待に応えられないと「無償の愛を与え合うことができなかった失敗例」として取り上げられる。

高校生のころ話を聞いてくれた友人たちは、母への思いが変わりつつある私のことを「恨まないなんて優しい」「捨てないなんて偉い」と評価する。姉や兄のように母を憎み続けることこそ、真っ当だと言わんばかりに。

私はただ、一人の人間にすぎない母のことを理解したいだけだ。社会的なラベルを取っ払って向き合いたいだけだ。母への理解を深めた先に何が待っているのかは、今はまだわからない。私の心の真ん中には、小さな子どものように一人で泣き続ける母がいる。憎み続けることなど、私にはできない。

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