第64回PHP賞受賞作
小松崎有美
埼玉県・主婦・38歳
思えば苦しい幼少時代だった。いつだって休み時間は一人ぼっち。「死ね」と書かれたメモもポストに入れられた。その「死ね」という言葉も、学年が上がると今度は「shine」にカタチを変える。習いたてのアルファベットが言葉でなく「言刃」となる現実。もう耐えられなかった。
「お母さん、わたし、もう学校行きたくない」
母は黙ったまま私を受け入れた。
それからというもの、めっきり学校に行かなくなった。家にいても部屋にこもるだけ。誰にも会いたくないし、何もしたくない。母が何か言おうとすると寝たふりをして、父が扉とびらをノックするとラジカセのボリュームを一気にあげた。
それでもポストにはしょっちゅう「死ね」と書かれた手紙が届く。一体誰がこんなことを。私はたまらず手紙を引き裂いた。何だか心まで引き裂かれる思いだった。
やがて進級を迎え、担任の先生が変わった。だが先生が変わっても、生徒が変わるわけで
はない。相変わらずポストには誹謗中傷の手紙が届き、そのたびに管理職の先生と話し合いがもたれた。
「もう死にたいです」
先生たちを前に私が呟く。
途端に母は「そんなこと言うのはやめて」と泣きくずれ、父は「学校はどう責任をとるのか」と声を荒らげた。
話し合いは平行線。そんな重い空気のなか、担任の先生が「学校とのつながりを失わない
ように補習をしたい」と言い出した。学校に行くのではなく、先生が家に来てくれると言
う。私は不思議といやではなかった。
「守ってあげられなくてごめん」
翌日から先生が補習をしにやって来た。しかしほとんど学校に通えなかった私の英語力は皆無。アルファベットの「J」は「し」になり、「E」も「ヨ」と書く始末。それでも先生は励ましながら一から教えてくれた。
先生が来ると思うと宿題のペンが進み、机に向かう気持ちも前に進んだ。ちくしょう。学校に行けなくて悔しいな。そう思いながらも、最後はそんな自分をまるごと肯定できた。だけど補習が始まって半年がたつころ、また「死ね」と書かれたメモが届いた。
「先生、もう本当に死にたいです」
私は私はメモを見せるなり、そのまま机に突っ伏した。
「先生が守ってあげられなくてごめん」
先生も振り絞ぼるように言った。その声は涙で震え、肩を抱く指先もブルブル震えていた。ああ、先生もつらかったんだな。子どもながらにそう感じた。だけど先生は続けた。
「shineは英語で『輝く』という意味があるでしょ。あなたには才能があるの。『死ね』
なんかに屈しないで輝くの!私がそうさせるの!だから、だから」
負けないで。先生は、最後、大きく涙を拭った。
そして転機は訪れた。私が市内で開かれる弁論大会の登壇者に選ばれたのだ。もちろん推薦人は先生だ。
「あなたの思っていることを、これまで習った英語で強く訴えてみなさい」
その日から 猛特訓が始まった。みんなが帰ったあとの教室。そこで担任の先生が原稿をチェックし、ALT(Assistant Language Teacher/外国語指導助手)の先生と発音を練習した。
大会の一週間前には市内のホールを貸し切り、学校中の職員が練習につきあってくれた。人がつながり、思いがつながる。そんな周囲のサポートが私を 舞台に押し上げた。
先生への感謝を伝えたい
I want to eliminate the word "shine" from this world where everyone can shine.(この世から死ねということばをなくしたい。そして誰もが輝ける世界に)
大会当日。私は壇上で15分間のスピーチを行なった。そんな私を先生は客席の隅っこで見守っていた。薄暗くて、姿はよくわからない。何だかまるで「私が 陰になるからあなたは光になりなさい」と言っているみたいだった。結果は金賞だった。
あれから25年。今でも当時を思い出すと胸が張り裂けそうになる。「死ね」と言われたこともそう。学校に行けなかったこともそう。いつだって私の青春にはいじめが見え隠れする。
だけど不思議と憎しみは消え、感謝の気持ちが残っている。それはすべて先生のおかげ。「死ね」に屈しない先生の「輝きなさい」のおかげだ。
死ぬほどつらい過去を、輝かしい未来に変える自信が今はある。いつか先生に会えたらお礼が言いたい。やっぱり英語かな。Thankの続きは自分で言いたいから。