第64回PHP賞受賞作
臼木巍
愛媛県・会社経営者・77歳
小学6年生の冬、2学期の終業式も近い日だった。放課後に、担任の女性の先生に「職員室まで来るように」と小声で言われた。いつかは必ず呼び出しがあると覚悟していた。体が小刻みに震えて止まらなかった。
気になるのは友人の目だが、誰にも見つからずに職員室のドアを開けることができた。職員室は独特な雰囲気と異様な圧があり、それだけで怖気づいた。先生は軽く手を挙げて私を招いた。私は先生の顔色をうかがった。
先生の机には、私の「給食費、学級費」の新しい集金袋が置いてある。滞納の件だ。私の心配は的中した。父の仕事と家の事情をいろいろと聞かれた。何も答えたくない。わが家には貧乏神様が長期滞在し、あらゆる実権を握っていた。
とにかく黙っていた。長い時間に感じられた。まるで音のない世界にいるように、私の耳は自然とふさがれていた。いつのまにか、目が潤んでいた。先生は私の肩に手を置いて「お母さんに言って、集金袋にお金を入れてもらいなさい」と、周囲の同僚に気づかいながらおっしゃった。できない返事だ。
この学校に転校して10カ月。「滞納」は4度目。母に滞納の集金袋を差し出す勇気は、いつもなかった。一番つらいのは、お金の話で母のやさしい顔が陰ることだった。
学校が苦痛だった。先生からいつ「滞納」の催促を受けるか、毎日その不安ばかりで登校した。集金袋は学校と家とを何度も往復した。公園で、ずっと思い悩んだ。
これ、ください!
12月25日。決して記憶から消えない日。職員室で集金袋を先生から手渡されて、3~4日経過していた。それは、フィルムに焼きついたように鮮明な映像で残っている。
狸小路商店街は、札幌で有名な繁華街だ。この街で夜、父の仕事を手伝っていた。その6丁目角が、わが「店」だ。リヤカーの上にベニヤ板を拡げ、古本を山のように並べただけの貧相な露天商。通行人は店に目もくれない。年の瀬に、古本を手にする人はまれだ。
粉雪が街のネオンにきらめき、間断なく降り続いては本の上に飛散する。ほうきで掃除をしていたそのとき、ふと肩口から声がした。雪の夜にはめずらしい客の声だ。
「これ、ください!」振り向けばマフラーで顔を覆った女の人がいて、古本2冊の価格を無視し、過分すぎるお金を急ぎ目配せして、私の手にしっかりと握らせた。その瞬間、声の主は担任の先生であると知った。
驚愕して、言葉が出なかった。知られたくない仕事を見られた。逃げ出したい。しかし体は縛られたように動かない――。
「がんばるのよ、あきらめてはダメ、絶対に!」と先生は耳元で囁き、雑踏の中に姿を消した。後ろ姿を呆然と見送った。先生はどこで私のことを知ったのだろう。夢を見ていたのだろうか......。
我に返ると「自分を見てくれている人がここにいる!」という歓喜に満ちあふれた。熱い血が全身に走り、えもいわれぬ温かさを覚えた。熱意ある先生の言葉に、心が揺らいだ。純白の粉雪の夜は、天使からの贈り物ものだった。
受けた恩の深さと後悔
父は道内の炭鉱で6年で3度もの倒産に遭い、一家で札幌に出てきた。それからの仕事の多くは、貧乏神様のせいで失敗した。家族6人の生活を支えるため、長男の私は仕事の手伝いを始めた。最後の賭けが古本屋だった。
先生から渡されたお金は3千円。給食費、学級費の半年分にも相当する大変な額だ。その夜、先生に長い御礼の手紙をつづった。厚意を甘んじて受け入れるしか方法はない。「必ずお返しします、それまではお貸しください」と一心で書き記した。感謝しかなかった。
その後、横浜に移住した。中学3年生の終わりになって、先生に御礼の手紙とともに大金を郵送した。お金は新聞配達で稼いだ。3年もかかった。だが、約束を守れたことに大きな安堵を覚え、再会の日を楽しみにした。
その1週間後、郵便物は返却された。予想もしなかった。男文字の手紙で、先生は昨年、悪性の癌で亡くなったことが知らされた。ご主人からだった。最後に「妻の意思として、お金はご返却します」とあった。受けた恩の深さと、間に合わなかった時間の重さに呆然とした。北国の空に向かい、ひたすら掌を合わせてお詫びした。今も残る大きな後悔......。
*
札幌は40年ぶりだった。狸小路商店街に足は向かった。やっと往時の「店」の面影の場所を探し出した。あの日の思い出にひたっていると、突然「がんばっている?」と後方からなつかしい声が聞こえた。思わず振り向くと、恩師の笑顔が、雑踏の中にくっきりと浮かんでいる。気づけば、その人波を懸命に追いかけていた。「先生!」と何度も叫びながら。