大前粟生(小説家)

1992年、兵庫県生まれ。同志社大学文学部卒業。『おもろい以外いらんねん』(河出書房新社)、『きみだからさびしい』(文藝春秋)など著書多数。短歌、絵本など活動は多岐にわたる。『ぬいぐるみとしゃべる人はやさしい』(河出書房新社)が映画化。

あなたの人生は、あなたのもの。世の中の出来事に引きずられすぎないでいたいですね。

私は先日、30歳になりました。こう言うと大げさに聞こえるかもしれませんが、長いこと生きてきたなあ、と私なりに思います。私は1992年の生まれで、2、3歳の時に阪神淡路大震災や地下鉄サリン事件が起き、9歳の時にアメリカ同時多発テロ、19歳になる2011年、大学入学の直前に東日本大震災が起きました。もちろん、他にも痛ましい事件はたくさん起こってきましたし、当然、めでたいニュースなども数多くあったのですが、特にこれらの出来事が印象に残っています。
私は、幸いにも、大きな事件に巻き込まれることも、大きな病気などにかかることもなくこの歳まで過ごしてきました。ですが、物心がついた時から、どうにも、世の中を揺り動かすような大きな事件に影響されてきました。なにか痛ましい事件が起こると、その都度、それに引きずられるように心の調子が崩れてしまうのです。 こういった人は、案外たくさんいるのではないでしょうか。つまり、ニュースや事件に敏感になってしまう人というのは。
それは、おかしなことではありません。人は自分と自分以外との関係性の中で生きているのですから、影響を受けないほうが不自然でしょう。けれど、なにかに反応する時の、アンテナの感度は人それぞれです。
歴史を揺るがすような大事件が起きた日だって、のほほんと気ままに暮らすことができる人もいれば、事件のことを知ったその日は心身がしんどくてたまらず、なにをする気にもなれない、という人もいるでしょう。どちらが良い悪いというわけではありません。それがポジティブなものであれネガティブなものであれ、心の動きというものは、自分自身を守ろうとするものなのです。
世の中の動きに敏感に反応するというのは、つまり、自らと世の中が関係しているということです。それは当然のことではあるのですが、SNSの登場によって、その距離感の強弱が激しくなっている人が増えたのでは、と直感しています。
SNSでは、本来自分の生活範囲の外にいる人や出来事とも簡単に繋がることができます。適切に運用することができれば、SNSは見聞や娯楽を増やし、人生を豊かにしてくれるかもしれません。
けれど、繋がることができるというのは、裏を返せば、関係しすぎてしまう、という危険を常に孕んでいます。SNSがきっかけで、自分と他人の適切な距離を見失ってしまったり、ここまで書いてきたことを例に挙げれば、痛ましい事件と繋がりすぎてしまい、心身の調子を崩してしまう、といったことも頻繁に起こり得ます。

生きていくうえで重要なバランス感覚

若い世代の人たちにとっては、主体的にインターネットやSNSを活用するというよりは、生まれた時から、身の回りの環境としてそれらに親しんでいるがゆえに、「繋がり」がもたらすよろこびも、しんどさも、当たり前のものなのかもしれません。
「当たり前」というのは、やっかいなものです。
私たちは、当たり前であるもの、つまり先入観だったり、常識とされているものに対しては、「ちょっとそこから離れてひと休みする」というような選択がなかなかできません。
けれど、私は思うのです。少し冷たい言い方のように聞こえるかもしれませんが、たとえ世の中がどうなっても、たとえ隣人がどうなっても、それはそれとして、私の人生は私のものです。あなたの人生は、あなたのものです。
自分と自分以外をしっかり割り切る。その上で、悩みたいことに悩み、笑いたいことに笑い、悲しみたいことに悲しむ。手を差し伸べたいことに手を差し伸べる。そうやって選択をしていくこと、選択をしようとする心づもりを持つことが、心の調子を左右されすぎないために大事なことのように思います。
人生は確かに山あり谷ありです。登り調子の時もあれば、下降気味の時もあります。
けれど、世の中や時代というのは、人ひとりよりも長い尺度の調子を持ちます。ある人の生涯のあいだ、ずっと不景気だったり、苛烈な時代だったりするということはあるでしょう。
人生にどの程度、世の中を巻き込ませるか、あるいは、世の中に対してどの程度、自分の人生を巻き込んでいくか、そのバランス感覚が生きていく上で重要なのかもしれません。

起伏がないのも悪くない

と、ここまで書いてみて、下手な説法のようなエッセイになってしまいましたね。せっかくなので、ここからはごく個人的なことを書いて終わりへ向かいたいと思います。
私は小説家という職業をしています。物語の中で「人生山あり谷あり」な登場人物を描くことはままあるのですが、私自身を振り返ってみると、どうも「山もない谷もない」ような人生です。もちろん、今後どうなるかはわからないのですが。
パソコンさえあればどこでも原稿仕事ができますし、友だちもあまりいないので、一日のほとんどは自宅にいます。なんというか、起伏の少ない暮らしをしています。
けれど、まさに起伏が少ないがゆえか、たまに、どうしようもなく虚しくなったり、イライラしたり、かと思えば、気温がちょうどよい、なんて些細なことにものすごく感動したりします。
そうした気分の浮き沈みを解決するいくつかの方法があります。
・散歩に行く
・長風呂をする
・サウナ
・整体
どれも似通っていますね。体が楽になれば、気持ちも自然と落ち着きます。逆を言うと私は、メンタルの調子が体に影響してしまいます。気持ちがぐったりと晴れない日は、体もがちがちに固まってしまうのです。
そうした心身の調子は、けれど、その日の原稿の出来がよければ、綺麗さっぱり解決されてしまいます。「仕事がうまくいったぞ......!」という自信が、心身の凝りをほぐすのです。
けれどそれは、仕事が健康を左右してしまうということですから、あまりよくない、危ういことだと思います。
作家としては、やはり小説のネタになるのである程度の山や谷があってくれるとありがたいのですが、ただの生活者としては、「山も谷もない」暮らしは悪くありません。
私が住んでいる地域は犬を飼っている方が多く、散歩道で出くわす犬たちは綺麗にトリミングされ、ふわふわの毛を揺らしながら歩いています。笑顔の犬たちを見ると、私も微笑んでしまいます。こうした暮らしで充分かな、と思います。

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