第63回PHP賞受賞作
林晃弘
兵庫県尼崎市・公務員・34歳
冷たい風が肌を刺す4年前の冬、2月の出来事である。僕は、ステージ上のピアノを前に、大学院修了試験であるピアノ演奏実技試験に臨もうとしていた。
芸大大学院での2年間、指導教授である熊本先生と二人三脚で、試験に向けて取り組んできた。演奏技術の習得と向上はもちろんのこと、ピアノを通して「自分を信じる強い心」や「忍耐の大切さ」などの「心の在り方」を教えていただいた。
その日は、大学院で学んだ2年間の集大成ともいえる試験の日。練習に練習を重ね、すべてを出し切る瞬間がやってきたのだ。
修了試験はホールに観客を入れ、実際のリサイタルさながらに、暗譜による1時間のピアノ演奏を行なう。学生にとっては、まさに命懸けのステージである。
もちろん、やり直しの許されない一回きりのステージだ。この日まで、選曲やプログラム構成、細やかな演奏技術や身体の使い方、ステージマナーや服装にいたるまで、先生と考えに考え、万全の準備を行なってきた。そしてついに、試験の幕が開いた。前半は得意のモーツァルトの変奏曲。「うまく弾けているぞ!」と演奏しながら大きな手応えを感じていた。続いてシューマンの組曲「子供の情景」に入った。一曲、また一曲と組曲が進んでいく......とそのとき、演奏開始からちょうど30分たったところで、和音をつかむ左手が急にパタッと止まってしまった。
――しまった!! 一瞬で僕の心は凍りついた。ふだんの練習ではミスなどしなかったパッセージなのに......。なぜだ! あまりに突然の事態に、涙が出そうになった。
試験本番でのミス
これまでも、本番で小さな音のミスタッチは何度かあったが、急に手が止まってしまうようなことはなかった。僕にとって、人生で初めての出来事だ。それも一番大切な修了試験の本番で。
僕の心は乱れた。音楽演奏で止まるということは最大のミスである。2年間のさまざまな出来事が頭の中を駆けめぐった。苦しい練習を乗り越えたこと、友人たちや先生のはげまし......。
このままではいけない! どうにか次の和音を探って演奏を進めなければ! 僕は必死に次の音を探し、演奏を続けた。
「止まってしまった」という失敗に対する気持ちと闘いながら、どうにか形勢を立て直そうと歯を食いしばった。後半30分は、あまりにも必死で、自分がどのような状態で弾いていたかさえ思い出すことが難しい。とにかく最後まで必死に弾き切った。
その後すぐに、修了試験の口頭試問が行なわれた。指導教授の熊本先生も試験官をしている。致命的なミスをしてしまったことが頭から離れず、先生に怒られるのではないか......という暗い気持ちが心を覆っていた。
ところが、先生から発せられた言葉は、意外なものであった。
「あなた、すごくよくがんばったじゃない! 本番は何が起こるかわからないのよ。それは私たちプロも同じ。でも、予期せぬ事態が起きたとき、逃げないで自分自身を信じてがんばることが大切なの。今日のあなたは本当によくがんばったわ。これからは、もう私がいなくても大丈夫! 私から学んだことを、林さん、次はあなたがみんなに伝えていく番よ!」
僕はこのとき、張り詰めていた気持ちが一気にほぐれ、涙が出るほどうれしかった。先生は、僕の「失敗そのもの」ではなく、その失敗をどう乗り越えていくのかという「心の在り方」を見てくださっていたのだ。
人生を支える先生の言葉
「闘う相手は常に自分自身。闘いの場所はあなたの心の中にあるのよ。あなた自身を信じて。あなたなら絶対にできるわ! 大丈夫よ!」と、レッスンのたびに、何度も何度も情熱をこめてはげましてくださった先生。先生からは、ピアノの技術や奏法と同じくらい、いやそれ以上に大切な「心の在り方」を学んだ。
今でもくじけそうなときやつらく苦しいとき、あの修了試験の日の出来事と、先生の言葉を思い出す。すると、「何があっても必ず乗り越えることができる! あの日、大きな失敗を乗り越えることができたんだから。自分を信じよう!」という勇気と力が、心の底からわきあがってくるのだ。
今思えば、あのときのあのミスは、それほど大きなものではなかったのかもしれない。けれど、あの日の出来事は、それからの僕の心や人生を支える、とても大きな意味を持つものであった。
今も、あのステージの光景とともに「自分自身を信じて!」という先生の言葉が胸に響いて、僕をはげましている。