第63回PHP賞受賞作

登彩
東京都渋谷区・会社員・33歳

"Always carry two handkerchiefs,one to show and one to blow." という、アイルランドの格言がある。「ハンカチは二枚、持ち歩きなさい。一枚は他人の目に映る用、一枚は自分が使う用に」が、直訳だろう。
紳士淑女のたしなみを示す、ありふれた表現かもしれない。でも、私にとっては心の奥底にある記憶のふたを開ける、特別な言葉だ。
あれは高校三年生で、秋の終わり。大学受験を間近に控え、下がり続ける成績に悩んでいたころの話だ。
その日は、学校で中間テストが返される予定だった。試験の手応えから、大した点数は望めそうもない。(現実を忘れて、パソコンゲームしたい......)。そう強く思い、生まれて初めて学校をサボった。登校するふりをして家を出た後、外をぶらぶらして帰宅したのだ。
当時、パソコンはリビングの専用デスクに設置されていた。家に戻った私は、受験生が朝から家でゲームをする背徳感に酔いつつ、デスクにいそいそと座り、電源を入れた。
パート勤めの母は、夕方に帰ってくる。昼過ぎに家を出れば、バレないだろう。そう確信して、鼻歌を歌う。我ながら上出来だった。
「は? あんた、何で居るの?」
数十分後。忘れ物を取りに来た母と、リビングでばったり遭遇するまでは。
頭が真っ白になり、うまい言い訳が思い浮かばない。母の顔はじわじわと怒りで満ちあふれ、般若のように変わっていった。
「ゲームしてるの!? 学校に行きなさい! ほら、早く!」
大声でまくし立てられ、セーブもせずに、あわててシャットダウン。床に置かれたカバンをつかみ、逃げるように家を飛び出した。

このままの私でいい

振り返ると、オニババが追いかけてくるような気がしていた。脇目も振らず、駅まで一目散に走り、地下鉄へ飛び乗った。
通勤ラッシュを過ぎた車内に、人はまばらだった。席に座ると、ぶわっと涙があふれてきた。(もう疲れたよ......)。声を殺して静かに泣き始めると、目の前に人の気配がした。
「ねえ。あなた、大丈夫?」
そこには短髪で、グレーのスーツに身を包んだおばさんがいた。
「あたし、学校で先生してるの。だから、あなたくらいの子が悩んでることも、わかる」
黙りこむ私を、おばさんの大きく澄んだ目が、まっすぐに見据えている。真剣だが、説教じみていない。ゆっくりと言葉が紡がれた。
「あなたみたいな生徒を、たくさん送り出してきた。みんな、すばらしいものを持ってたの。何もない子なんて、一人もいなかった」
「でも、私は勉強できないし、お母さんにも怒られて、何やってもダメで......」
誰にも言えなかった本音が漏れてしまった。勉強は今まで、私に存在意義を与えてくれた。部活もせず、恋人もおらず、特技もない、そんな私に「頭がいい」という価値を。いい成績を取れなくなった今となっては、生きる意味なんて、まったく見つからなかった。
「そんなことない。きっと、あなたもいいものをたくさん持ってる! あたしにはわかるから。今はまだ、気づいていないだけ」
別の涙がとめどなく流れ、おばさんの顔はよく見えない。ハンカチで顔を拭いてもらって、やっと視界が開けた。
「だから、大丈夫。きっと、大丈夫だから!」
そこには、思いっきり、きれいな笑顔があった。驚いた。こんな顔ができる大人なんて、知らなかった。(あぁ、そうか)。たぶん彼女は、ずっと欲しかった言葉を、くれたのだ。勉強ができなくても、両思いでなくても、得意なことがなくても、いいのだと。このままで私は生きていいし、価値があるのだと。
「ハンカチ、あげるわ。じゃあね!」
駅に着き、颯爽と電車を降りていくおばさんに軽く会釈した。ハンカチを見つめると、白い無地に小さく桜の刺繍が施されていた。

きっと大丈夫だから!

桜は咲くことなく、大学受験は惨敗した。大人になった今も、あまり状況は変わらない。
子育てに追われる平社員の私は、他人にはさえない人生に映るかもしれない。しんどい瞬間や、どうしようもない夜もある。でも、あの日のおかげで、何とか生きている。
それは、いつも心に二枚のハンカチがあるから。一枚は、他人のため。社会人として、母として。アイロンでピンと皺が伸びている。もう一枚は、自分のため。ぼろぼろでぐしゃぐしゃだけど、別にいい。誰かに見せるためじゃない。どんなにみっともなくても私のもの。それだけで尊いし、大切にされていい。
「きっと大丈夫だから!」と、十数年前におばさんのくれた、とびきりの笑顔と共に。
やっと生きられるようになった「自分の人生」というハンカチを、抱きしめる。

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