第63回PHP賞受賞作

柳谷すみれ
北海道岩見沢市・会社員・37歳

それはあまりに突然だった。4年前の秋。忘れもしない10月1日、父から家族LINEにメッセージが来た。父、母、4人きょうだいのグループトークだ。それぞれが家庭を持っても毎日のようにやりとりしていた。「おはよう」「今日涼しいね」など他愛もない話がほとんどだ。
母は、知り合いの農家からの農産物を送ってくれるのが趣味で、毎週のように「みかん送るね」「ほかに何入れる?」と通知が来ていた。そんな家族LINEにめずらしく父からのメッセージが流れた。「お母さんが倒れた」。
胸がザワっとした。母が? 本当に? 事実を受け入れまいと否定する言葉が次々に浮かんでくる。母は健康オタクで、体にいいと聞けばすぐ商品を買いに行く人だった。昨日までやりとりをしていたのに。10月でも九州は暑いから、きっと熱中症か何かだな? 重病ではないだろう。自分を落ち着かせるため、たった数分でいろんな思考が頭を駆け巡めぐった。
父に連絡したが、病院にいるのだろう。数時間、連絡がつかなかったが「検査中だから落ち着いて来て」と返事が来た。翌日の航空券しか手配できず、夜はよく眠れなかった。

「お願い、生きて」

翌日、空港へ向かう車内で再び父から連絡があった。「お母さんかなり危険な状態だから覚悟していて」。気分はどん底だった。涙目になって読み返し、「お母さん生きていて。お願いします」と呪文のように何百回と唱えた。
「みなさん、先生から説明がありますので中へどうぞ」。病院に着くと、看護師さんからそう言われた。母は、くも膜下出血で意識がなくなって運ばれたようだった。幸い、知り合いの化粧品店で座って話している最中だったため、地面に倒れるといった事態は防げた。
でも、意識が戻ったり失ったりをくり返していて、いつ亡くなってもおかしくない状態だった。これは夢かもしれない。夢であってくれ。そう何度も願ったが、次々涙がこぼれてきて現実に引き戻された。
その日は病院に泊まることになり、先生からは「今夜がヤマなのでしっかり見ていてあげてください」と告げられた。夜中に母が横たわるベッドに行き、うなされている姿を見るのはつらかった。母の手を久しぶりに握りしめ「お願い、生きて」と何度も祈った。
翌日、母は危篤状態のままだった。話があるので、家族みんなで聞いてくれと先生から伝えられた。話によると、となりの市の大きな病院に母を手術できる専門医がいて、転院してすぐに手術ができるかもしれないとのことだった。一筋の光が見えたが、転院するにはリスクが伴うという。母の容体がいつ悪化してもおかしくない今、決断が迫られた。だが、私たちの意見は一致していた。藁にもすがる思いで「お願いします」と返事をし、みんなで転院の準備や手続きなどいろんなことをすばやく決めた。
手術はひとまず成功した。倒れた状況や病院での処置、専門のお医者さんが執刀できて容体が急変しなかったことなど、すべてが奇跡だった。「ありがとうございます。ありがとうございます」。これほど感謝したことはない。数回手術を受け、母は順調に回復していった。覚悟していた後遺症も、ひどくはなかった。記憶しづらい、我慢がしにくい、といったことはあるが、歩いたり食べたりという日常生活に不自由がないまでに回復した。それでも、すべてが順風満帆というわけではない。最近のことを記憶するのが難しく、「今何時?」と何度も聞いたり、自制できずに食べ過ぎてしまったりといったことがあった。ささいなことだが、ちりも積もれば山となる。父に負担がかかるのが心配だった。
そんなとき、両親のきょうだいが、実家に手伝いに来てくれた。私たちも、交代で実家を訪れるようにした。母が今までみんなを気にかけてきたからこそ、みんな手を差し伸べてくれる。母の人徳だなとつくづく感じた。

今日もメッセージを

あれから四年が過ぎた。母は相変わらずみんなに支えられて今日も元気に生きている。
「おはよう。今日はリハビリに行くの?」「今日はお父さんに送ってもらいます」。こんな会話が毎日LINEをにぎわせる。
ほとんどメッセージを送ることがなかった父は、今ではこんなことがあって大変だったと連絡をくれる一番の話題提供者だ。父と母の立場もすっかり入れ替わり、母はもう一度生まれ変わって第二の人生を歩んでいるようにさえ感じる。
コロナ禍でつらいことや苦しいことも多い昨今、母の危篤を家族で乗り越えた困難を思えば、たいていのことは乗り越えられる気がする。生きているからできること、伝えられること、笑える喜び、日々に感謝しながら、今日も私は父と母にメッセージを送る。

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