鍋島直樹
死の前で不安をかかえる人、死別の悲しみにある人の心に届くような仏教死生観と救済観の研究に取り組む。東日本大震災直後から被災地を訪問し、遺族と心の交流を続ける。2010年から龍谷大学文学部教授を務め、2014年に東北大学大学院と連携し「臨床宗教師研修」を実施。2021年、論文「親鸞の死生観とビハーラ活動の理念と実践の融合的研究」で文学博士号を取得。
つらいとき、あなたを慈しむ月の愛のような優しさが、きっとあります。
悩みをかかえているとき、人は何を求めるのでしょうか。苦しんでいる人が求めているのは、心の中を詮索されることではなくて、ただ寄り添ってくれることでしょう。
寄り添う姿勢をよく表している言葉に、Not doing, but being. があります。「何かをすることではなくて、そばにいること」という意味です。
もちろん相手のために何かできるのなら精いっぱい尽くします。それでも絶望的な状況におかれている人に、私たちは何もできず、かける言葉も失うことがあります。
そのようなとき、私たちが何もできなくても、その悲しみに沈んでいる人のそばにいていっしょに悲しみ、「大丈夫 、大丈夫」と優しく肩をさすったりするだけで、ささやかな支えになることを、先の言葉は教えています。
そばにいる慈しみについて、仏教では「月愛三昧」と教えています。その昔、アジャセ王が人にそそのかされ、父を憎み、牢獄に幽閉して死なせてしまいました。
しかし父を亡くしてはじめて、アジャセは自らの犯した罪を後悔しました。アジャセは自分を責め、全身に腫れものができました。医師ギバは「慚愧することは人の道です」とアジャセをなぐさめました。
ギバにすすめられて、アジャセは釈尊(釈迦)に相談に行きました。すると釈尊は何も言わず、アジャセのそばにいました。「なぜ罪深い私のそばに釈尊はいてくださるのですか」とアジャセはギバに尋ねました。
ギバは、「釈尊が静かにそばにいるのは、月の愛のようにあなたを照らしまもる慈しみです。あたかも月光が夜道を行く人を照らすように。月光が闇のなかで青い蓮を咲かせるように」と答えました。
やがて仏の願いが至りとどき、汚けがれたアジャセの心に清らかな信が生まれました。
心がこだまし、いたわりあう
誰かがそばにいてくれることは、月の愛のような慈しみとなって自分をなぐさめ、素直にさせてくれます。
本当につらいことを話すのはむずかしい。つらいことを誰かに話すという行為は、話すことでもう一度、自分を傷つけることになりかねません。
そのようなつらいときに、心を許せる人といっしょに過ごすと、言葉を超えたつながりを感じられて、安らぐことがあります。
私の尊敬する神戸赤十字病院心療内科の村上典子医師は、災害で大事な人を亡くした遺族の悲しみに寄り添いつづけています。村上医師はある研修でこう教えてくれました。
「人はあまりに大きな心の傷を受けた場合、自身の心を守るために、心にふたをするときがあります。そのときは、無理に感情を表出させません。治すというより寄り添います。黙ってそばにいます。言葉がこぼれおちるまで」
私はこの優しさに感動しました。
彼女と協働している増尾臨床心理士は、「苦しくて頭で考えてもどうしようもないときは、その方が苦しみを手放し、悲しみをこの前に取り出して、私もいっしょに支えたい。悲しいのは、その方が大事な人からたくさんの愛情を受けとったから」と教えてくれました。
うれしいときだけではなく、苦しいときに、誰かと心がこだましあう。お気に入りの抹茶ラテを飲んでいたわりあう。それがきっと生きる力となります。
日常が光り輝くとき
四年前、私の父が病気になりました。父の部屋を訪ねて「大丈夫ですか」と様子をうかがい、部屋を掃除します。特に、尿瓶やトイレを洗ってきれいにするのが私の役割です。
父はいつも「ありがとう」と言って合掌します。父はいい話はしません。「元気がでない。心労をかけてすまない」となかなか解決がつかないことを話します。
他面、知人が父を訪ねてお寺に来ると、父は僧侶の黒い衣をまとい、車椅子で移動し、「大丈夫ですよ。精いっぱい生きたその向こうにお浄土がありますから」と笑顔で話し、相手に心配をかけないように毅然とふるまいました。
けれども、部屋に戻ってくると「思うように動けない」と悲しみます。私はその悲しみを否定せずに、ただうなずいて聞きました。そういうつらい気持ちを言ってくれるのは安心でもありました。病人は最も弱い存在であり、いつも遠慮しているからです。
父はだんだん耳が聞こえにくくなりました。それで食卓の上に一冊のノートを置いて、父と私とがそのノートにメッセージを書きました。ノートには、その日の予定、ごはんの献立、仏さまのみ教えについて尋ねたいことを書きました。
たとえば「長崎の皿うどんがあったから今日はこれを召し上がってください」と私が書くと、父は「昔、修学旅行で長崎に行ったことを思い出した。うれしかった」と書いてくれました。心と心がこだましあうことは、看病する私にとって大きな力となりました。そのノートは、私にとって父が亡くなったあと
も鑑になりました。
他愛もないことを普通に話せることほど幸せなことはありません。父から「ミルクがないから頼む」とメールが届いたら、私は喜んでおいしそうなミルクを買い求めました。買ってきたミルクを見せると、父はにこにこ笑いました。何でもない日常が光り輝きました。
父は、病状が思わしくなくなり入院しました。医師、看護師の献身的な治療と妹の介護によって、父は幾度も快復しました。
書道の先生でもあった父は、「和顔愛語」という経文を病室で書きました。「仏さまは柔和な笑顔で接し、優しい言葉をかけて相手を慈しむ」という意味です。
それはいつもほほえんで優しくしたいという父の願いそのものでした。看護師が父の字をほめると、父は自信を取り戻しました。病室で鉦を鳴らして読経しました。不思議にもたくさんの痰がでて体調が良くなりました。
父の読経に私も勇気づけられました。懸命な治療と看護を受けつつも、父は私と妹たちの手の中で亡くなりました。
死の前には人間は無力かもしれません。それでも、大切な人の想いに耳を傾けることはできます。微力があります。相手とともに考え、あきらめずに最後まで挑戦することはきっとできます。
たとえ多くの困難があっても
父が心の支えとしていた歌に、甲斐和里子さんの歌があります。甲斐和里子さんは、女子教育の樹立のために情熱を注いだ女性です。
「岩もあり 木の根もあれど さらさらとたださらさらと 水の流るる」
岩は、自分の行く手をはばむ壁をさし、木の根は、根を下ろして動かない人の心を象徴しています。
小川はそれらの岩も木の根もこだわりなく包みこんで清らかに流れていきます。人それぞれの思いはからいを超えて、たださらさらと流れる小川は、仏さまの慈しみのようです。
たとえ多くの困難があっても、大きな慈しみにつつまれて、小川のようにさらさらと困難を包みこんで流れていきたい。この詩を私も心の支えにしています。
悲しみはいつしかそのまま優しさに変わっていきます。愛する人は手を合わせる心の中に還ってきます。
葛藤や悔しさでいっぱいになっても、大事な心の支えを確認して、寛容さを保ちつづければ、何も恐おそれることはありません。
流した涙を未来の種に注ぐことができれば、いつか幸せの花を咲さ かせることができるにちがいありません。輝く大切なものは、あなたの中にきっと生きています。