第62回PHP賞受賞作

藤田ゆかり
埼玉県所沢市・主婦・65歳

「あらあら、お帽子をなおしてあげましょうね」
娘をおぶっていた私のうしろで声がした。同時に、中年女性が駆け寄ってきて、あっというまに目深にかぶっていた娘の帽子を上にあげた。
次の瞬間に起こるであろう光景で、私の頭の中は真っ白になった。おそらく彼女は狼狽し、自分のおせっかいを悔やみながら足早に立ち去ろうとするだろう。そんな未来を想像していた。
「まあ、かわいいこと。なんてお名前なの?」
彼女から発せられた思いもよらない言葉に、私はおどろいた。
「愛子です」
思わず答えた私に、彼女は微笑みながら、こう言った。
「お帽子でおめめがよく見えないみたいだったわよ。お母さん、愛子ちゃんのために、堂々として!」
狼狽してしまったのは目の前の女性ではなく、私のほうだった。
愛子はダウン症。愛子を連れて行くスーパーでは、いつも他人の目が気になって、私はおどおどしていた。
なるべく愛子の顔に気づかれないように、故意に帽子を深くかぶらせていたのだ。障害児を産んでしまった自分を恥じていたし、世間にも負い目を感じていた。そんな私の心の中を見透かしたかのような女性の発言。
彼女は、こう続けた。
「お母さん、堂々と胸を張って! 愛子ちゃんのために」
そう言うと、笑顔のままスーパーから出て行った。私は、雷に打たれたかのような衝撃を覚えた。
そうだ! 今このときから卑屈になるのはやめよう。私が卑屈になれば愛子も卑屈になってしまう。堂々と胸を張って、生きるのだ。
私の中で、何かがはじけた。
スーパーを出ると、西の空が茜色に染まっていた。私は、その夕焼けに、美しいなあと見入ってしまった。つい先日も、空は同じような色をしていたけれど、私は夕焼けを血を流したような色だと思ってしまったのだった。
愛子が生まれて、11カ月。忘れられない母親再生の日だった。

おまじないの言葉を胸に

堂々と胸を張って生きていると、いいことが向こうからやってくるようになった。愛子がよく笑うようになった。私にママ友ができた。そして何よりうれしかったのは、特別支援学校で吉田先生と出会えたことだった。
そのとき、愛子は小学1年生。私は娘に文字の読み書きなど、まったく期待していなかった。でも、吉田先生は、
「最初からあきらめないでください。少しずつやっていきましょう」
とおっしゃり、根気よく教えてくださったのだった。
愛子は、6年かけてひらがなの読み書きができるようになった。そして、はじめて書いた文は、「せんせいだいすき」であった。先生とは、もちろん吉田先生のことだ。
私はというと、「堂々と胸を張って」という言葉を、おまじないのように唱えて暮らしていた。
「あんな嫁をもらったばかりに、あんな子ができてしまった」
そんな姑の嘆きを耳にしたときには、本当にこのおまじないに救ってもらった。もし、このおまじないがなかったら、私は、まるで深い海の中で、もがき苦しむような心境になっていただろう。

先生たちのおかげで

子育ても順調に思われたころ、吉田先生のお母さまの訃報がもたらされた。
私は、告別式に出席した。その告別式で手を合わせたとき、私は心臓が飛び出るほどおどろいたのだった。
遺影のお顔は、ずいぶん年を重ねていらっしゃるけれど、なんとあのスーパーで出会った女性ではないか。あのお方は、吉田先生のお母さまだったのだ!
遺影からは、まるでこんな声が聞こえてきそうだった。
「堂々と生きていますか? 胸を張って生きていますか?」
私は何度もうなずきながら、涙が止まらなくなった。
人目を気にしながらうつむいていたあのころ、彼女に出会わなかったら、私の人生は大きく違うものになっていただろう。
現在、愛子は42歳。
あいかわらず幼児のような子だけれど、私は愛子の手を引いて堂々と、どこへでも出かけている。
さあ、胸を張って!