還暦の年に突然倒れ、一時は生死の境をさまよった内館牧子さんにいまの心境をお聞きしました。

人生って、本当、何が起こるかわかりませんね。

60歳の還暦の年でした。それまで病気らしい病気もしたことがなかった私が、突然、倒れたんです。心臓と冠動脈疾患、共に急性でした。

そのとき、私は岩手県盛岡市で文士劇に出演していました。土曜、日曜の2日間の公演で、その1日目を終えた後の打ち上げの席でした。文士劇は、ふだんはあまり表に出ることのない作家や文化人などが出演するお芝居です。東京からも編集者やマスコミ関係者が応援にかけつけて、打ち上げ会場として借り切った居酒屋さんの二階は、たくさんの人で大賑わいでした。

「カンパーイ! 明日の公演も頑張りましょう」

私も元気よくビールのグラスをかかげ、いざ一口飲もうとしたときです。なぜだか、アゴがガクガクガク......と震えるんです。どこも痛くはないんだけれど、なんだかむしょうに具合が悪い。まだ飲んでもないのに、おかしいな。ちょっと部屋の外で冷たい空気に当たれば気分がよくなるかしらと、廊下に出たとたんクラーッときました。

幸い、たまたまその場にいらしたのが、座長で直木賞作家・高橋克彦さんの弟さんで、循環器の医師でした。素早い判断ですぐに救急車を呼んでくださいました。

担架代わりの戸板に乗せられて店の外へ出たら、激しい吹雪でした。「戸板なんて、時代劇みたいね」などと軽口をたたいたくらいですから、そのときはまだ意識があったんですね。けれど、その後はもう何も覚えていません。そのまま、私、2週間も目を覚まさなかったんです。

「死」は突然やってくる

あのとき運ばれたのは、岩手医科大学附属病院。これも本当にラッキーなことに、そこにカリスマといわれる心臓外科の名医がいらして、すぐに緊急手術をしていただけました。約13時間にもおよんだ緊急の難手術は成功。でも、意識が戻らなかったんですね。家族や周りの人は、もうダメだと思ったらしいです。「死亡会見は開くべきか」なんていう話も出たと後で聞きました。

実は、その間、ずっと変な夢を見続けていました。どこか知らないビルの屋上に、大きくて真っ白なオープンカーがとまっているんです。どうやら、みんなでそれに乗り込んで空の上から火祭りを見に行くらしい。私もそれに乗りたいって、すごく楽しみにしているんです。

ところが屋上に上がって「そろそろ出発ですか?」と聞くたびに、まだだと言う。しばらくしてまた行くんですが、まだ。それを何回も繰り返すんですね。4回目か5回目だったかな。行ったら車がないんです。近くにいた人が、「ああ、火祭りの車ね。さっきみんなを乗せて出て行っちゃったよ」。私、悲しくて残念でね。

意識が戻ったのはその後でした。後でみんなにさんざん言われました。「その車に乗っていたら、あなた死んでたわね」と。きっと、死ぬ人はみんな乗って行ったんですね。話に聞く"三途の川"も"お花畑"もなかった。でも、あれが臨死体験だったのかもしれません。不思議なこともあるものですね。

ただ、脚本家は転んでもタダでは起きません。目が覚めてから「これ、ドラマか小説のネタに使えるかも!」とひらめいた(笑)。ところが、ベッドの脇のメモを取ろうとしてハッとしました。2週間の間に筋肉がすっかり落ちて、腕がまったく動かないんです。紙1枚も持てないほど筋力がなくなっていたんですね。

あれから7年。さすがに昔みたいにパパパッと階段を駆け上るようなことは無理ですが、もうすっかり元気です。今思うのは、病気って案外治るものだなということです。私は、パソコンやスマートフォンを一切使いません。ですから、病気についてインターネットで調べることもない。他に情報がないから、医師のおっしゃることだけを素直に信じて、言われた通りにやりました。それがよかったのかもしれませんね。

散り際に、その人の人生があらわれる

昨年は小説『終わった人』(講談社)を発表しました。仕事一筋だった主人公が、定年後、新しい生き方を求めて試行錯誤する姿を描いたものです。

私は脚本家になるまでは、13年半、三菱重工業に勤めておりました。その間、定年で退職していく男性たちの姿をずいぶん見てきました。社内報を作る部署にいたので、彼らにインタビューするのも仕事だったんですね。

すると、たいていの人が「これからは妻と温泉に行って楽しみます」「孫と遊びます」「念願だった菊を育てたい」などと意気揚々と第二の人生を語る。あの頃はそんな前向きな話を、疑いもなくそのまま記事にしていました。私自身まだ若く、腰掛け気分で勤めていましたから、第一線から退く寂しさなど思い至らなかったんですね。

だけど、自分も脚本家になり、仕事の面白さを知るとわかるんです。現役バリバリだったのに、あるとき社会から「もういいです」と言われてしまう......。そのつらさ、虚しさ。退職社員たちのあの明るい言葉、あれは半分見栄だったのでしょう。温泉三昧と言ったって、女房はそんな喜びませんよ(笑)。孫はすぐに大きくなるし、いくら好きでも菊ばっかり育てていられない。やっぱり仕事がしたいという心境を書いたのがこの作品です。

それにしても、『終わった人』というタイトルは衝撃的だったようです。「あの本、読んだよ」と報告してくれた同級生の一人など、本屋さんで買うとき苦労したらしいです。タイトルが見えないように、別の本にはさんでレジに持っていったんですって。若い店員さんに「ああ。この人、終わったんだ」と思われたくないから(笑)。

でも、誰だっていつかは終わるんです。還暦後、急に同窓会やら昔のサークルの同期会やらのお誘いが増えました。出席してみて、思ったんです。中学や高校で勉強ができて、いい大学、いい会社と進んだ人も、劣等生でそこそこしか活躍できなかった人も、結局着地点は一緒だなと。すごく美人でモテてた人も、今やフツーでね(笑)。

「散る桜 残る桜も 散る桜」は、良寛和尚の辞世の句です。誰もがやがて散っていきます。少々早いか遅いかはあっても、必ず散る。ただ、どう散るかはそれぞれです。できれば、品格ある老い方をしたいものです。

終活は一切やらない

ただ、何が品格かと聞かれると難しい。世間では、"終活"や"人生のしまい仕度"が大事と言われます。もうモノなど買わず、断捨離して身辺を縮小していくのが品格だとおっしゃる方もいるでしょう。たとえば、何か新しいことを始めたくても、「先がないから暮らしを広げないで、きれいに終わる方法を考えよう」とか。それも節度ある老い方かもしれません。

けれど、一度あの世へ行きかけたからでしょうか。私の場合、その心境とはちょっと違います。倒れたときの私は"しまい仕度"など何もしていませんでした。

それこそ、新しいことを始めたばかりだったんです。でも倒れる寸前「しまった、月謝が無駄になった」とか「モノがごちゃごちゃ。身辺整理しときゃよかった」などと後悔したかといえば、そんなことを考える間もありませんでした。もし意識不明のままで死んでいたとしたら、自分が死んだことさえ気がつきません。いろんな死があるでしょうが、多くは何もわからないんじゃないかしら。

あの病気以来、心配し過ぎるのも準備し過ぎるのも意味がないと思いましたね。「どうせもうすぐ死ぬから、やめとこう」と欲しいモノをあきらめたり、やりたいことを我慢するのもつまらない。だから私は、終活は一切やらない。その時々にできること、やりたいことをします。

50代で東北大の大学院に入る時、「そんなお金があるなら、老後に回しなさい」とさとされたこともあります。仙台と二重生活ですしね。でも、いつ何が起こるかわからない未来のために、準備するのは、心が弾みません。

生きている間は、死ぬことは一切考えませんね。あとのことは、残された人でどうにかしてね。ごめんねって感じです。みんながこっちに来たら、おごるからって(笑)。

取材・文:金原みはる

写真:宮﨑貢司

※本稿は、月刊誌「PHP」2016年6月号掲載記事を転載したものです。

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