2021年、ショパンコンクールで日本人として2人目となる最高位2位入賞を果たしたピアニストの反田恭平さんに音楽を始めたきっかけ、今後の展望をお聞きました。

いい言葉、いい人生

よちよち歩きのころからサッカーが好きで、名古屋のチームに入っていました。ピアノを始めたのは4歳のとき。当時住んでいた社宅の、いわゆるママ友のつながりで、ヤマハ音楽教室で習いはじめました。といっても、鍵盤を触ると音が出るというのを知り、音を聞く練習、音に耳を慣らす訓練という感じでした。

半年後に引っ越した東京で、一音会というミュージックスクールに入りました。オペレッタがメインでピアノは少しでしたが、そこでさまざまな作品に触れました。目立つことが好きだったので、オーディションで役を勝ち取って歌って踊っていました。でもあくまで趣味のレベルでした。

11歳のときに試合でけがをして、ずっと続けていたサッカーをやめました。ただ、うすうす「日本代表にはなれないな」と思ってはいた。そのレベルの子がまわりにいたから、なんとなくわかるんですよね。

同じ年に桐朋学園の音楽教室に入って本格的にピアノを始めました。そこで現実を知るわけですね。うまい子だらけ。1学年に成績のいい子だけが100人いるという感じです。ホールで演奏できるのは、その中でも特に選りすぐりの3人程度、その中に今回ショパンコンクールに一緒に出場した小林愛実さんがいました。僕の1歳下の彼女は当時もうカーネギーホールで演奏しているような子だったから、「本物がいる!」という感じでした。僕はそれを客席で見ている側。くやしいという気持ちはあまりなかったんです。なぜなら、すぐに追いつかなくても、いつかは自分もそこへ行けるという、何の根拠もないですが、よくわからない自信がありました。

サッカーはあきらめたけど、2回もあきらめることはできないという気持ちがどこかにあって、ピアノを一生懸命やりはじめました。弾くと小学校の友達が喜んでくれるのがうれしかったですね。ドビュッシーの名前なんて知らない子が「またあの曲弾いてよ」って言ってくれたり。

クラシック音楽のかっこよさを知り、ピアノにのめりこむ

夏休みには指揮者のためのワークショップに参加して、最終回に運よくオーケストラを振ることができたんです。そのとき初めてクラシック音楽がかっこいいと思えました。指揮台に立ってパッと振ったら大人たちが一斉に演奏して、風みたいなものが巻き起こる。こんなにかっこいい世界があるんだってそのとき初めて知りました。クラシック音楽全体が好きになった瞬間でしたね。

それが僕のターニングポイントで、「プロとして生きてる人たちがいるんだな」という認識も生まれました。それまでは、ショパンの幻想即興曲が弾けて、エチュードが弾けるようになれば──要は音数が多くて難しい曲が演奏できればプロのピアニストだと思っていました。でも、思春期とともに、音楽的な表現、内面性というものを知るようになってくるわけです。ショパンやモーツァルトを演奏しながら、「この曲はもしかして恋人を思って書いているのかな」とか「これは失恋したときの気持ちなのかな」とか、そんな奥深さにのめりこんでいきました。

4歳で最初に習った先生が「好きな曲を好きなように弾いて聞かせて」と、とっても優しかったんです。こう弾いちゃダメというようなことは一切言わなかった。それで挫折してピアノが嫌いになってしまう人も多いようなので、僕は恵まれていたと思います。

そうやって好きな曲だけを弾いて個性をめいっぱい伸ばしてもらえたのですが、家がすごく厳しかった。練習は1日3時間。門限が5時半なうえに、8時半までしか練習させてもらえませんでした。近所迷惑だというのが理由です。なので、いかに効率よく練習するかを考えるようになりました。たとえば最初の20分は指慣らしでこの曲をやって、3曲譜読みをする。3曲合わせて1時間としたら、2回弾いたらもう時間が来るので、学校にいるあいだに楽譜を読んでおく、とかね。さっきも話した幼少期の先生のおかげで、毎週好きな曲を弾くために初見で譜読みする能力が身についていました。

奈良から世界へ、クラシック音楽を発信する

僕は黙っている子ではなかったので、親との衝突は激しかったです。高校では本格的に音楽をやりたいと思いました。音楽教室の友達と3年間一緒に過ごしたかったし、習いたい先生がいたからです。すると父親に「そんな中途半端にやっている子には高い学費は払わん、コンクールで1位になるのが入学の条件だ」と言われました。それで、半年ちょっとの間で受けられるコンクールをすべて受けて全部で1位をとって、賞状を「はい」って見せました。「約束」って。負けず嫌いなんですよね。それに昔から、好きなように、好きな人たちのために、好きな時間に、自由に弾きたかった。

高校の3年間では、バッハやベートーヴェンなど、小さいころには退屈と思ってしまって手を出せなかった作品をみっちりやりました。一番練習した時期だったかもしれないですね。とにかく猛練習しましたが、その分、失ったものもけっこうありますよ。友達と遊ぶとか、普通の高校生がやるようなことを。

高校3年生のときに出た日本音楽コンクールで運よく1位になれて、それを機に留学したりコンサート活動を始めたり、オファーをいただいてプロデビューもできました。

注目を浴びるようになって気づくことはたくさんあります。自分は怖いもの知らずだったなと。1つのコンサートのために、こんなにたくさんの人がかかわっているんだなと知って、緊張もするようになった。それまでは、舞台袖では緊張していてもステージでは平気だったんですが。

デビューして2年が経ったころ、自分の夢に向かって準備をするべく独立を決めました。音楽しかやってこなかった人間ですので、社会人として仕事をするようになって、知らないことが多すぎると実感したんです。一般常識もですし、確定申告などお金のことも、人との接し方も。

全部用意してもらえて、「あなたはピアノを弾くだけ」というのはありがたいですけど、表舞台に立つ人間として、いろんな人がどうやって支えてくれているかを知ることが必要だと思いました。人と仕事をするというのはとても大事なことだと思うし、音楽を届けるっていうのは、そういうことだと思うんです。

独立する少し前、自分の夢、将来学び舎(学校)を作りたいという夢に向かって始動しました。2018年に同世代の弦楽器奏者を集めダブルカルテットを立ち上げ、翌年には17人の室内オーケストラ(現ジャパン・ナショナル・オーケストラ)にしました。

2021年にはこの室内オーケストラを株式会社化し、スポンサーである企業の応援のもと、奈良を拠点に世界に発信していくために運営を始めました。このオーケストラは、学校を作ったときにとても大切な役割を果たします。

オーケストラや学校を運営していくためには何が必要なのか。多くの優れた人材が必要になる。そのため──自分の夢を実現させるためには、自分自身がもっと有名にならないといけない。まずは僕がソロのピアニストとして活動して実績を残して、またぜひ来てくれと言われたときに、オーケストラも一緒に行くことができるように。

じつは、そのためのショパンコンクールでした。

5年に1度の開催で年齢制限が30歳以下という最後のチャンス。どんなにプレッシャーがあろうと、出るしかなかったし、勝ち取るしかなかった。ファイナリストを目標にしていたので、3次予選を突破したら楽になりました。用意した17曲すべてを弾けるのは500人のうち12人。その達成感がすごかったです。全部弾けたことにまず感謝。最後は楽しく弾けて、幸せな40分間でした。

コンクールの前はピアノをやめようかなと思っていたこともあったんです。実業家・経営者にシフトチェンジするほうがいいんじゃないかと。それでも、やっぱりショパンコンクールに出たことはとてもよかった。道をひらくためにも必要なものでした。

2位をとれて、とても感謝しています。地球の裏側にいる人からも応援のメッセージをもらったりオファーが来たり、今まで行ったことがないところにもこれから行くことになると思っています。過程も大事なんですけれども、やっぱり5年、10年と経ってしまえば、だれも覚えていない。コンクールの結果はパスポートみたいなもので、これからこのタイトルを持って、今までは出会えなかった人や、僕のことに気づいてもらえていなかった人とも会うことができると思っています。

取材・文:編集部

写真:吉田亮人

※本稿は、月刊誌「PHP」2022年4月号掲載記事を転載したものです。

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