立川談慶(落語家)
1965年、長野県生まれ。慶應義塾大学卒業後、ワコールに入社。3年間の会社員生活を経て、91年、立川談志の18番目の弟子として入門。著書に『花は咲けども噺せども』(PHP文芸文庫)などがある。
立川談慶さんは、愛する人を亡くした悲しみを、空を見つめて乗り越えました。
1995年は今振り返っても人生で最悪の時期でもありました。
その前の年、当時付き合っていた彼女が「甲斐駒ヶ岳の紅葉を観に行ってくる」と言い残し、オフロード型のバイクに乗って出かけた以来行方不明になってしまいました。
あれからおよそ半年後の三月半ば。
ヤマメ釣りの解禁日に沢から登ってきた釣り人に、変わり果てた姿で発見されることになりました。
当時まだ私は前座という修行中の立場で、師匠談志には毎日怒おこられるだけの日々でした。
「プライベートは一切師匠には見せてはならない」。それが徒弟制度でした。
途轍もない悲しみでしたが、一人で背負い込むしかありません。酒の力を借りたくも買う金すらありません。
誰にも打ち明けずにひたすら下宿に戻っては一人で泣き続ける日々でした。
あの日あの時どうしていたのでしょう。振り返ってみましたが、ずっと「空を眺めて」いたような毎日を送っていたことを思い出しました。あてもなくただひたすら空を、上を見つめてばかりいたものです。
空が自分の小ささを教えてくれた
少年野球では打撃指導の際、「顎が上がらないように引け」と教えます。顎が上がると全神経が緩みます。したがって集中力を欠くことにもつながりますから、まずそこから指導します。
つまり今思うと、悲しみに打ちひしがれた時の「笑う」前の段階として、「身体を緩める→つまりは、顎を上げる、空を見つめる」という一連の流れを、知らず知らずのうちに実践していたのでしょう。
笑いは「上を向いている状態」でないと発生させにくいものです。
昭和の大名人の三遊亭圓生師匠が昭和天皇の前で落語をやることになった時、侍従らは陛下が見下ろすような低い位置に高座を設定しようとしたのですが、圓生師匠が「陛下が見上げるような位置に高座がないとお楽しみいただけないはずです」と強く訴え、結果として通常と同じ高座を設置したという有名な逸話があります。「上の方を見ると笑いやすく」なるのです。
さて、毎日毎日空を見続けていると、自分の小ささも空から教えてもらうことになりました。副産物でしょうか。そしてさらには天にも見守られているような「妄想」も芽生えてきました。
「今お前が置かれているこの環境だって、ずっといつまでも続くわけじゃない。見ろ、時が経てば、雲は流れてゆくだろ」
「この切ない瞬間だってやがて振り返ればきっと思い出になる時が来る」
「時は哀しみを懐かしさに変えてくれる魔法なんだ」
無理に笑わなくてもいい
江戸川柳に「泣く泣くも良い方を取る形見分け」というのがあります。「哀しみのどん底」にいる時だって人間というものは可笑しいものだよと、人間の真理を謳ったものです。
「よし、今日も一日涙を堪えて過ごせたから、明日もやってみよう」と、無理に笑うことなくただひたすら空を見つめることを心がけてゆくと、身体も心もほぐれていったせいか、次第に自然な笑みがこぼれるようになってゆきました。
清々しい朝日、照りつける日差し、吸い込まれるかのような夜空ばかりではありません。曇空の奥深ぶかさ、雨と雪がもたらしてくれる自然の重みも冷たさも、すべて恋しくなり始めました。空は表情豊かです。
やがて。
少ない仕事でしたが、落語会のお客さんはじわじわと増え、私の笑顔もまた増えてゆきました。
そしていつの間にか気が付くと隣には、新しい彼女、今のカミさんがいました。太陽が舞い降りてくれていたのです。
笑えない時は、一人で空を見つめるのを習慣にしてみましょう。
泣いたっていいんです。その涙はあなたの心の大地を湿らせ、やがて大きな芽を出すための滋養となるはずですから。