浅田宗一郎(住職・作家)

1964年、大阪府生まれ。龍谷大学卒業。最新刊は、月刊誌『PHP』に連載した小説をまとめた『涙のあとに、微笑 みを 菓子店「ほほえみ」・光り子の物語』(PHP研究所)。

浅田宗一郎さんのお母さんは、悩み・苦しみが絶えなくても、毎日前向きに生きていました。

私の祖父(母の父)は、樺太の敷香で、「中道寺」という寺の住職をつとめていました。
しかし、太平洋戦争後にソ連(現在のロシア)が樺太を占拠したため、祖父と家族は身一つで敷香を去らなければなりませんでした。
その後、親戚を頼って関西に戻った祖父は、小さな寺を護ることになりました。
私は幼少期をアパートや団地で過ごしました(母子家庭で生活するのに精一杯でした。また、祖父とは離れて暮らしていました)。
私が青年期のときに母が祖父の寺を継ぐことになりました。このとき、私は母と一緒に団地から寺に引っ越しました。
寺の生活も厳しいものでした。贅沢品はほとんどありませんでした。私にとって外食や家族旅行は夢の世界でした。私の幼少期と青年期には、つねに逆風が吹いていました。
ただ、祖父と母は、毎日、私に愛情を注いでくれました。貧しくても、笑顔を忘れず、前向きに歩んでいました。
私は、寺の本堂で、祖父と母と一緒に、よく、「仏説阿弥陀経」というお経を読みました。
そのなかに、「青色青光 黄色黄光 赤色赤光 白色白光」という一節がありました。
祖父は、「宗一郎(私のことです)。この言葉はお浄土の光をあらわしている......。おじいさんも、お母さんも、宗一郎も、そのままで光り輝いているんだ」といいました。
このとき、私は、「そのままで光り輝いている」という言葉が強く印象に残りました。

「負の体験」を伝えなかった母

私が高校生のとき、叔母(母の妹)から、「樺太のお寺は大きかったの。私たちは豊かに暮らしていたのよ」という話を聞きました。
私は驚きました。祖父と母は樺太時代の話をまったくしなかったからです。
後日、私は、母に、「お母さん......。戦争を、恨んでる?」と尋ねてみました。
母は、何も答えませんでした。
ただ、静かに微笑んでいました......。
私は、その姿をみて、母が樺太を追われてからどのような気持ちで生きてきたかが少しわかったように感じました。
太平洋戦争は日本を奈落の底に突き落としました。当時、樺太に住んでいた人びとは、命こそ助かりましたが多くのものを失いました。その後、生活を立て直すことができずに悩み苦しんだ人はたくさんいたと思います(祖父と母もそうでした)。
祖父たちの樺太生活は、よいときもありましたが、最悪の結果になりました。
祖父と母は、私に、「負の体験」を伝えないために、あえて、樺太時代の話を封印したのでしょう。そして、過去を、恨まず、嘆かず、たとえ貧しくても、悩み・苦しみが絶えなくても、毎日、私に愛情を注ぎながら、前向きに歩んでいたのだと思います。
私は、母の静かに微笑む姿に、強い決意と大きな愛情を感じました。そして、地位や、名誉や、財産がなくても、「祖父と母は、そのままで光り輝いている」と思いました。

祖父や母のように生きたい

祖父はすでに亡くなりました。母は九十歳を超えています。私は祖父と母が護った寺を継いでいます(今は、少しお参りが増えて、何とか生活することができています)。
祖父と母は、自分自身の歩みを通して、人間はそのままで光り輝いていることを教えてくれました。
私の目標は、祖父と母のように生きることです。
私の幼少期と青年期、さらに、壮年期はままならないことの繰り返しでした。
私は、これからも、たびたび逆風に襲われるでしょう。
しかし、すべての人間は、そのままで光り輝いています。
私は、自分の、「光」を信じ続けます。
そして、その光をよりどころにして、喜びや楽しみはもちろん、苦しみも悲しみも受けとめて、命ある限り、一日、いちにち、笑顔を忘れず、前向きに歩んでいこうと思います。