第61回PHP賞受賞作

二村直子
三重県四日市市・主婦・52歳

「この子、おもしろい子やな。私のだみ声が好きなのか、よく笑うわ。毎日ここに連れてきてやりな。家にずっとおるのは、もったいないわ」
迫力のある大きな声で、F先生は娘を抱きあげて言った。見るからにベテランで、子どもと接するのが楽しくてたまらない様子の、元気な女性の先生だった。
出産して約半年で、娘の病気がわかった。病名を検索すると、悲しい未来が書かれていた。一生歩けない。話すことも難しい。だんだんと筋力がなくなり、いずれは人工呼吸器が必要になる。長くは生きられない......。
そんな悲しい現実をつきつけられて、私は絶望していた。これからどう育てていけばいいのかも、わからなかった。
主治医が市立の通園施設を紹介してくれた。この園は、就学前の障害のある子どもが、親と一緒に通う施設だ。子どもの個々の力を伸ばす場であると同時に、親の学びの場にもなっていた。
まだ娘は1歳だったが、なにか娘の発達の助けになるかもしれないと思い、まずは週1日から通うことにした。
1年間通い、ママ友ができたことはとてもよかった。けれど、娘は泣いてばかりで、通う意味があったのかと正直戸惑いもあった。だから、もう1年は、このまま週1日だけ通園すればいいと思っていた。そんなときに、F先生から声をかけられたのだった。

「世の中を変えていくのは、この子たちや」

迷った末に、毎日通うクラスに入れることにした。娘は相変わらず泣いてばかりいたが、
「焦らんでいい。みんなのなかにいるだけで、じゅうぶんや。かしこい子やから、はじめてのことが不安で泣くだけで、わかってきたら楽しめる」
と、先生は会うたびに励ましてくれた。
毎日通いだしてから2年目、はじめてF先生が担任になった。このクラスは、6人全員が首も座わっていない肢体不自由児だった。また、どの子も、知的障害を持っていた。
F先生は、「普通の保育園」と同様、紙吹雪や砂、水などを使って子どもたちを全身で遊ばせ、ブランコもすべり台も、ひとりでやらせようとした。自分でやってみたいという思いはどの子にもあると、いつも言っていた。
F先生は、子どもが笑えば誰より喜び、彼らにできることが増えたときは、誰よりも先に見つけてほめた。
親が悩んだら一緒に悩んで、解決への道を見つけてくれる。そんな人柄と、子どもたちへの愛情に、私はずいぶん救われた。
ある日、朝の体操の時間に、
「うちらの子は、肢体不自由のなかでも重度の子ばかりやね、先生」
とひとりの母親が言うと、先生が答えた。
「あんたらの子は、重度じゃないよ。最重度やわ!」
この発言で、みんなが爆笑した。本来なら不謹慎な発言かもしれないが、強い信頼関係があれば、むしろほめ言葉にも聞こえた。
そして先生は、こう続けた。
「世の中を変えていくのは、この子たちや。この子たちが生きやすくなれば、誰もが生きやすい世の中になるやろ。大きな力と役割を持って生まれてきた子たちやで」
今度は全員が泣いた。
そんな1年を過ごしていくなかで、親同士の絆も深まり、互いに励ましあいながら、前を向いて子どもと生きていく力がついてきた。
娘は、人が大好きになり、目新しいことにも全力で挑戦できる子になっていった。

母ちゃん、無理せんといこな

年長児まで、親子で毎日この園に通い、5年間の濃い時間を、仲間や先生と過ごした。担任は毎年変わったが、どの先生も親身になってくれて、子どもたちと精一杯向き合ってくれた。
卒園式の日、式が終わると、廊下に先生たちによる花道ができていた。そのなかを、私は娘の車いすを押しながら歩いた。F先生のところまでくると、先生が娘を抱きあげて、
「小学校に行っても、中学生になっても、高校生になっても、死んだらあかんよ」
と言って、目を真っ赤にして娘をぎゅっと抱きしめた。私は胸がいっぱいで、涙が止まらなかった。そんな私にも先生は、
「母ちゃん、無理せんといこな。心配せんでも大丈夫やから。ずっと元気でいられるから。細く、長く、ゆっくりいこな」
と声をかけてくれた。
先生からもらった愛情いっぱいのエールが、それからの子育ての指針となった。
あれから20年。娘は元気に生きている。今でも、F先生の言葉を思い出す。これからも、娘との1日1日を大切に生きていこう。
無理せず、細く、長く、ゆっくりと。