岩瀬成子(いわせじょうこ)
児童文学作家。1950年、山口県生まれ。高校卒業後、公務員として勤務し、退職。京都の聖母女学院短期大学の聴講生として児童文学を学び、'75年に帰郷。'78年『朝はだんだん見えてくる』(理論社)で日本児童文学者協会新人賞を受賞。『もうひとつの曲がり角』(講談社)ほか、著書多数。
たとえ貧しくても、楽しく生きたい。遠回りしながら、たどり着いた先は―。
わたしは人から見ると、どうも自分のペースでのんびり生きているように見えているらしい。らしいというのは、自分の生活のテンポは自分には普通のことだからだ。
わたしは若い頃、就いた仕事が長く続かなかった。子どもの頃、母からよく「あんたの考えは世の中には通用しない」と言われていた。母はわたしの我の強さを心配していたのだと思う。
商業高校三年生のとき、五月ごろになると同級生はつぎつぎに就職試験を受け、合格通知をもらうようになっていた。わたしも一社、大手の石油会社を受けた。
筆記試験のあとの面接試験で、面接官から「きみは労働組合を作りそうな顔をしているな」と言われた。その会社には労働組合がなかった。
面接官から「尊敬する人物はだれですか」と尋ねられたとき、いっしょに面接を受けたほかの女子高生は「ナイチンゲールです」とか「シュバイツァー博士です」などと答えたのに、わたしが「いません」と答えたのがいけなかったのかもしれなかった。わたしはただ、心底尊敬できる人物はだれかと自分に問うてみて、正直に答えたつもりだった。
筆記試験の成績もたぶん良くなかったのだろう。わたしは試験に落ちた。
自分がしたいと思うことで生きたい
そのあと就職試験を受けないでいると、秋になって進路指導の先生に呼び出され、「職業に貴賤はないぞ」と諭された。ほとんどの人の就職が決まっていた十一月になって、家の隣の町役場に就職が決まった。母から、家から通える職場を望まれてもいたので、ぴったりだった。
町役場の人はみんな親切で、へまばかりやらかすわたしを温かい目で見てくれていた。
親も公務員なら安定した職業だと喜んでいたのだが、わたしは二年ほどで辞めてしまった。
そのあと公共職業安定所に行って、広告代理店に就職した。地方テレビ局のテレビコマーシャルを作る仕事だったのだが、そこも結局二年ちょっとで辞めてしまった。
そのあともいろんなアルバイトをしたけれど、どれも長く続かなかった。
わたしは働きはじめて最初のうちこそ仕事を覚えるのに一生懸命なのだが、仕事に慣れて仕事がわかってくるとだんだん意欲を失ってしまうのだ。
このままここで、あと何年この仕事をつづけなきゃなんないんだろう、などと生意気にも考えるようになって、そのうちすうっと気持ちがしぼんで辞めてしまうのだ。
そして辞めたあと、この先自分はどうなるんだろう、と心配になった。心配しながらも、なんとか貧しくても自分がしたいと思うことをして楽しく生きていきたいものだ、とも思っていた。
心動かされるものを大切にする
その後、母に逆らって家を出ていたわたしは、ある日偶然、児童文学作家の今江祥智さんの講演を聴いた。今江さんの名も、児童文学についても、なにも知らなかったのだが、イギリスの作家フィリパ・ピアスの『トムは真夜中の庭で』について話されたその講演に感動した。児童文学にはこんなすばらしい作品があるのかと驚いた。
わたしは児童文学をもっと知りたいと思い、今江さんが教鞭を執っておられた大学に聴講の申し込みをし、今江さんの講義を聴くようになった。楽しかった。時間もあった。
いろんな人にも出会えた。だが貧乏だった。
そのうち友人に誘われて同人誌のメンバーになり、少しずつ童話や短編小説を書くようになって、それを今江さんに読んでもらうと、長いものに書きなおすことを勧められた。そして長く書き直したものが、今江さんの尽力もあって、児童文学として出版された。
自分では、これが最初で最後の本になるだろうと思っていたのに、そのあともいろんな人のお陰で、いままで細々と書いてこられた。
ほんとうに細々と。
わたしはいまでも、貧しくてもできれば自分がしたいと思うことをして楽しく暮らしたいと思っている。それが人にはのんびり生きているように見えるのかもしれない。