第58回PHP賞受賞作
森 惇
千葉県松戸市・無職・三十六歳
結婚して間もなく、突然病気にかかった。
腸が機能せず、食べるものすべてを激痛でくだし、水になるまで下痢をくりかえした。
最初は、医師も何かの食あたりだろうと考えていたが、何日か経つとまた同じ症状が現れる。薬をいくつも試したが、症状は回復せず、何度も何度も検査を受けた。
さまざまな病院をめぐる中、とある胃腸の専門病院で老医と出会い、症状は一時的だが回復を見せた。流動食も食べられないほどだったが、数カ月後には奇跡的に仕事へ復帰するまでになった。私は妻と歓喜した。
そんなある日、何か言いにくそうに、妻から相談を受けた。
「子どもが欲しい」
私は、その言葉に拒否反応を示してしまった。まだ仕事も様子見の段階で、病気の状態も、下痢となる周期を薬でのばしているだけだ。治っているとは言い難い。
妻には「病気が完全に治ってからにしてほしい」と伝えた。
ちゃんと仕事ができて、経済的に保障されている状態でなければ、親となる勇気が私には持てなかった。
だが、病気の原因が特定できないため、完治する目途が立つ状況ではない。
妻は「三十歳を前に出産したい」と結婚する前から言っていた。彼女は二十八を超えていたし、今子どもを持ちたいという気持ちも痛いほどわかった。
しかし、現状や未来の責任を考えると、簡単に「イエス」と言うことはできなかった。
そんな悩みに明け暮れ、答えを出せずに時間だけがいたずらに流れていった。
「病気が治れば、すべての問題が解決する。早く病気を治したい」
そう毎日願っていたが症状は変わらず、焦りだけが心に残る。考えれば考えるほど、私は未来に尻込みをしていき、やがて妻の話さえ聞くことが嫌になった。
人生をあまり急がないこと
そんな日々が続く中、ある日、義父から一通のメールが私の携帯電話に届いた。遠方に住む義父とは結婚のあいさつのときに会ったくらいで、あまり深く話すこともなく、メールを交わすのも初めてだった。
義父のメールの件名には、「頑張らない」と一言記されていた。
メールを開くと、「人生をあまり急がないこと。子どもは自分の食い扶持を背負って生まれてくると昔から言われています。だから、心配しすぎないで」と書かれていた。
不意のことで、私は目頭が熱くなった。
子どもを授かって、万が一経済的に苦労させてしまった場合、妻の両親に対して一番申し訳が立たない。
ずっとそう考えていたし、子どものお金は自分が稼がなくてはいけないと、一人ですべてを背負い込んでいた。だが、実際は病気で思うように体が動かない。
判断ができずに思考ががんじがらめとなっていたときに、義父から届いた言葉は、私を混沌の闇から救ってくれた。
義父からの突然の激励に、不安や恐怖心などの抑え込んでいた感情があふれ出した。
私は散々泣きつくした後、未来はわからずとも、とりあえず前へ進んでみようと勇気が湧いてきた。
妻子と生きのびることができた
あれから十年、子どもを授かってから八年のときが流れた。私はいまだに病気との戦いが続き、一時は完全な寝たきり状態となったが、最悪な状況は底を打って、一歩一歩遅々たるリハビリを続けながら生きている。
この間、妻と子どもの存在がなければ、生きていることは絶対にできなかった。私が病魔に打ちのめされたとき、子どもの存在に何度支えられただろう。妻さえ言葉をかけられないほど落ち込んでいるとき、無邪気に笑う姿に何度救われただろう。
妻と子どもの支えで命をつなぎとめられたと実感する今、本当にあのとき子どもを授かる決断をしてよかったと思う。
もちろん闘病の現実は、とてもつらく、苦しい。すべてをあきらめたくなる日も数多くあった。
だが、この十年間を振り返ってみると、「病気が治らなかった」という敗北感より、「辛い日々を妻と子どもと共に何とか耐えぬき、生きのびることができた」という勝利の感覚のほうが強い。
あのとき、義父が背中を押してくれなかったら、今の私たち家族は存在しない。
私の闘病は、どうなってゆくかはわからない。しかし、どんな状況になっても、これからも家族の支えを力に、少しでも未来へと進み続けてゆきたい。そう、心から思う。