第57回PHP賞受賞作
丸山かおり(大阪府東大阪市・会社員・47歳)
“その人”に出会うまで、私は声を出すことができない子どもだった。病気や障害があったからではない。私は自分の気持ちを、想いを口に出してはいけないのだと思っていた。
母は、私が2歳の時に病気で他界した。以来、父が男手一つで私を育ててくれた。昭和ひと桁生まれの父にとって、それは大変なことだったと思う。その日一日を過ごすことで、精一杯だったのだと思う。
四十年以上前のことだ。シングルファザーは当時とても珍しく、周囲からの支援も理解も得られにくい環境だった。幼い私を抱えて、父は一人ですべてを背負っていた。
だから父は、いつも難しい顔をしていた。
日々の疲れや、先々への不安が父から笑顔を奪ってしまったのだと思う。
今なら理解できるこういった状況も、子どもだった私には分からなかった。ずっと一人で留守番をして、遅く帰る父を待つ。蓄積された寂しさを、帰ってきた父にぶつけた。
とめどなく喋る私の言葉を、父はすぐに遮った。疲れている父にとって、子どもの舌足らずな話し方や、脈絡のない言葉はうるさかったのだろう。
「黙っていなさい」と、いつも父に怒られた。
そんな父のことが、私は怖くなった。同時に、私が喋らなければ、父は怒らないのだと思った。父は元来無口な人だったから、家の中はいつも冷たい静寂が覆っていた。それを父は好んでいるように思えた。
父はそれでよくても、幼い私の心は想いを吐き出す場所を激しく求めていた。私はぶつぶつと独り言を言うようになった。それを知った近所のおばさんが奇異に思い、親切心から父に伝えた。
伝えられた父はひどく怖い顔をして、私に、「変に思われるからやめなさい」と言った。何がどう変なのかを父は語らなかったから、私は外でも喋ってはいけないのだと思った。
家の中でも外でも私は喋ってはいけない。
心の中にはいろんな気持ちがあふれてくるのに、それを発してはいけないのだ。声が出そうになる度に、私はそれを飲み込んだ。唾を飲み込むように飲み込んだ。
それをずっと繰り返していたら、いつの間にか声が出せなくなってしまった。名前を聞かれても、声が出ない。喉の奥にビー玉があって、声を出そうとすると、それが喉をふさいでしまうような感覚。
声が出ない私のことを、みんな遠巻きにした。声が出せない私に対して、“その人”以外は誰も踏み込んできてくれなかった。
「きょうは、なんじにおきましたか?」
“その人”とは、小学校2年の時の担任の先生。新任で、双子がいるママさん先生だった。
私が喋れない子だと、1年の時の担任から申し送りされていたようで、先生もはじめは私に話しかけてはこなかった。ただ、私のことを注意深く見てくれていた。そうして、喋れない私がいつもノートに何か書いていることに気がついてくれたのだ。
声が出せなくなってから、ノートに毎日毎日、外には出せない気持ちを書いていた。日記のようで、少し違ちがう。私の心の叫びだった。
そのことに気づいた先生が私にノートを渡してくれた。中にはひらがなで分かりやすく、
「きょうは、なんじにおきましたか?」と書かれてあった。
他愛のない一文。でも、それは私にとって、ものすごく嬉しいことだった。私に向けられた言葉。私のことを問うてくれる言葉。
その返事を私はたくさん書いた。起きた時間以外のことも書いた。それを渡してから、怯えた。書きすぎたと思った。気持ちを出すことはいけないことだと思っていたから。
でも大丈夫だった。先生から返ってきたノートには、返事がたくさん書かれてあった。
嬉しかった。本当に嬉しかった。自分の気持ちを出してよいのだと、初めて思えた。先生が、そう思わせてくれた。
喉の奥のビー玉が流れた
以来、先生と毎日ノートを交換した。それと並行して、先生は毎日私に話しかけてくれた。先生になら、声を出して、自分の気持ちを伝えられるかもしれない。そう思えるようになったことで、私は振り絞るような声を出した。
喉の奥につかえたビー玉を押しのけて、
「はい」
と、声が出た。身体が震えたのを覚えている。声を出したことへの怖さと驚き。
そんな私を先生は抱きしめてくれた。柔らかい先生の身体に包まれて、私は声をあげて泣いた。涙と一緒に、いろんなものが流れていった。喉の奥のビー玉も流れていった。
先生のおかげで、私は徐々に声を出すことができるようになっていった。いつか先生に、お礼の言葉を声にして伝えられたら、と思う。