第56回PHP賞受賞作
山田幸夫(大阪府阪南市・無職・69歳)
もう半世紀も前の、中学1年生の2学期。
その日は、秋なのに蒸し暑い日だった。校外学習の一環として、反戦・平和をテーマとした演劇を学年全体で鑑賞した。会場は学校ではなく、劇場だった。
劇の進行とともに、退屈の態度を見せる生徒が出始めているのが僕にもわかった。その雰囲気は徐々に伝染していく。
そんな時、隣りの席に座っていた生徒が、退屈だとの意思表示のつもりだったのだろう。
あからさまに大きな欠伸(あくび)をした。
舞台上の空気が一瞬止まったと感じたとたん、周りの生徒たちがこちらに視線を集めた。
そして、振り返った担任の先生と僕の目が運悪くも合ってしまった。
僕ではない、と言いたかったが、声も出せず、とっさに首を横に振っただけ。誤解されているだろうと思うだけで胸が塞がった。
「あの欠伸は僕ではない」と、先生に言い訳すればよかったのに……。当時のことを思い出すたびに溜息が漏れる。誤解されたままの自分の姿を想像するだけで悔しい。その悔しさが、長い間、僕の脳裏に去来した。
その後、20数年を経て、かつての光景が立場を変え、私に突きつけられた。
私は30歳で小学校の教員になった。その1年前まで働いていた会社を辞め、先生にでもなるか、という「でもしか先生」だった。
しかし、子どもたちと出会い、関わる中で、先生という仕事に魅せられていった。
新米教師としての小さい失敗はいくつかあれども、日々の仕事を大過なくこなしていくことで、徐々に、確固たる根拠もないまま、教師としての自信に包まれ始めていた。
思い込みで叱ってしまう
仕事にも慣れた教員3年目。5年4組の担任になったとき、前4年生の担任から引き継ぎで「やんちゃで、問題のある子がいる」と伝えられた。輝男のことだった。
1学期が始まって早々、クラスのAが、血相を変えて私のところへ飛んできた。
「輝男に、どつかれた!」
私は、思い込みだけで、輝男を叱った。
うつむいたまま、口を真一文字に結んで、微動だにせず私の叱責を聞いている。
こんな場合、多くの子どもは、自分は悪くないとばかりに「言い訳」をするのだが、何も言わない輝男の態度に違和感を覚えたものの、Aに対して謝らせた。無理やりだった。
放課後、職員室にいる私のところへ、学級の女子児童ふたりがやってきた。決心したと言わんばかりの様子で言った。
「悪いのは輝男ではない」と。
この女子ふたりと他の子らがドッジボールで遊んでいたら、Aを含む男子数人がボールを取り上げようとしたので輝男が注意した。
しかし、喧嘩になってしまった、と説明した。
その夜、私は輝男の家へ走った。
本当のことを言わなかった彼をなじる口調で責めた。輝男は重い口を開き、母親から「男なら言い訳をするな」と言われていると教えてくれた。
同席していた母親は付け加えた。他の子より一回り身体も大きいし、力もある。そんな風貌のためか、幼稚園の頃からトラブルになると輝男のせいにされた。そのたびに言い訳をすると、周りの大人たちの不信がより増幅していったのだと、悔しさをにじませた。
「それだけで嬉しかったんや」
私は、母一人子一人で育ててきた母親の気丈さが輝男に我慢を強いてきたのだろうと内心思った。同時にその理不尽さも私の胸を苦しくさせた。
私は、思いっきり輝男に謝った。
彼も我慢していたのだろう。
「お母ちゃんは言い訳するなと言うけど、ずっと悔しかったんや」
そう言うなり、声を上げて泣いた。
入学してから今まで、「問題児」として引き継がれてきた彼の悔しさを思った。
私も彼も、流れる涙をそのままに、しばらく向かい合っていた。
「ごめんな輝男、先生失格や」
そうつぶやいたとたん、私自身がずっと悔しい思いを引きずってきた演劇鑑賞の光景を思い出し、あの時の私と輝男が重なった。
「ほんまに、ごめんな、教師失格やな」
言葉を繰り返すことだけが、私のできることのように思えた。自分自身がおかした、思い込みによる悔しい失敗だった。このことが、彼の一生にとって、取り返しのつかないことになっていたかもしれないと思うだけで辛かった。その時、彼は顔を上げた。
「先生は、失格やあらへん。ボクが言い訳せんかったからや。それに先生は、家まで来てくれたやろ。それだけで嬉しかったんや」
彼のこの一言に背中を押され、30年間の教員生活を全うできた気がしている。