玄侑宗久(げんゆうそうきゅう)

僧侶・作家。1956年、福島県生まれ。慶應義塾大学卒業。臨済宗妙心寺派の福聚寺住職。僧職のかたわら執筆活動を行ない、2001年『水の舳先』(新潮社)でデビュー。同年、『中陰の花』(文藝春秋)で第125回芥川賞を受賞。著書に『流れにまかせて生きる』(PHP研究所)など。

自分の主張を通そうと息巻くことだけが「強さ」ではないと、玄侑さんは言います。

性格が強い、弱い、というのは、どうも分かりにくい。一般的には、自分の思いや主張を何が何でも通そうとするのが「強い」のだろうし、困難ならすぐにでも変化させるのが「弱い」のかもしれないが、本当にそうだろうか?

道場の先輩で、決して「誰にも口答えしない」と決めていた人がいた。誰にも口答えしない、というのは世間では明らかに「弱い」態度だが、それを非常に「強く」守ろうとするその先輩は、けっして弱いとは思えなかった。じつはその先輩、『老子』の愛読者で「柔弱」の思想になじみ、戦うことの無意味や受け身に徹する凄さも充分知っていたのである。

老子は幼児や女性、あるいは水などをモデルに、「柔弱」という在り方を究きわめていった。

どんな場面でも相手に応じ、そこに親和的な空気をつくり、周囲に愛される存在になることで逆に自分の思いが叶っていく。その考え方は荘子にも受け継がれ、100パーセント受け身に徹することで精神はむしろ自由であり得るのだと考えられていく。

こうした考え方(老荘思想)は、古代中国では政治的な立場をもたない庶民たちに絶大な支持を得ていく。私自身は、東日本大震災という未曾有の災害の最中にこの先輩のことを憶いだした。そういえば和語の「しあわせ」の語源は、どんな状況にも「仕合わせ」、うまく受け身ができたことを讃えたのではなかったか。古代には「那為(ない あの方のなさること)」と呼ばれた地震、そして俄かに放出された無主物(放射能)の中で、私はそうして自由を取り戻していったような気がする。

 

五重塔の究極の「柔弱さ」

当時はなぜか五重塔のことも何度か想った。あれは元々仏舎利を祀るための塔(ストゥーパ)だが、日本には神社仏閣に所属するものだけで47基もある。観光用のものも入れると100基を超すというから、中国・韓国に一基ずつしか残っていない現状からすれば驚異的である。仏舎利もなく、これほど地震が多かったのに、いったいどういうわけでそんなに造られたのだろうか。

じつはこれまで存在した五重塔で消滅したものが4基ほどあり、いずれも落雷による火災や延焼、付け火などで、地震で倒れたものは1基もない。おそらく五重塔とは、古代から最も怖れられた地震への、果敢なる挑戦なのではないだろうか。

他のシステムもあるようだが、多くの五重塔では芯柱が浮いている。大きな地震が来ると、中心になる柱が揺れるのだ。通常の建物では考えられないことだが、五重塔はそれによって重心をずらし、倒れないバランスを保つという。これこそ究極の「柔弱」と言うべきだろう。

 

自分の芯が揺れることをも楽しむ

他人の批判や強風に曝されたとき、きっと人は自分の芯だけは守ろうとする。芯とはこれまでの歴史でもあり、プライドでもある。

しかしその大切な芯を、五重塔はあっさり揺らすのである。五重塔とは、地震にさえ「仕合わせ」る手本を見せてくれているのではないか。

思えば意に沿わない事態や嫌な奴など、地震や放射能に比べればさほどのことはない。

五重塔のように芯まで揺らし、起き上がり小法師の如く揺れを楽しめばいい。しかし言うは易く、行なうのは相当難しい。道場の先輩も結局は一番上の立場になり、「誰にも口答えしない」のはいいが、つまりは口答えすべき相手がいなくなってしまった。

そうなると今度は柔弱を後輩たちに強制しはじめた。「口答えしない」修行をさせるため、横暴なことも言いだしたのである。これが私には「強さ」に見えず、人間の「弱さ」に見えたのは言うまでもない。

修行だと思えばあらゆる弱さを甘受する強さが持てるのに、それは理想的なものとして指導されはじめた途端にあえなく潰えてしまうのだ。さても強さ弱さは難しい。
 

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