第56回PHP賞受賞作

鳥居ひとみ
愛知県弥富市・主婦・64歳

デイサービスの送迎バスを見るたびに、母のことが思い出される。母は認知症のため、デイサービスを利用していた。足を骨折してから2年後、認知症の悪化と体力低下で、白いご飯が大好きだった母が、最期はお水も喉を通らなくなり、84歳で亡くなった。

90歳過ぎまで長生きできると思っていたのに、こんなに早く逝くなんて……。

一日に何度も母の顔が浮かんでくるが、会いたくても会えない。その現実に、自然と涙が溢れてくる。日ごとに愛しく、淋しくなるとは、予想できなかった。

振り返ると、子どもの頃の私は、母のことがあまり好きではなかった。私の行動、些細な失敗に対し口うるさかったからである。

実家は両親と祖母、兄、弟の6人家族で、米と野菜作りの農家だった。朝は、子どもたちが起きてくる前にひと仕事すませ、日没し、うす暗くなるまで、両親はよく働いた。

私が中学生になった頃、父が勤めに出ることになり、農作業は母一人ですることになった。この頃から、祖母も病気で寝込むようになり、食事の支度ができなくなったので、それも母の仕事となった。母の負担が一気に多くなった。「することばかりで忙しい」が口癖になり、母は忙しく動きまわっていた。

小学生の頃から、田植え、稲刈りなどを手伝っていたが、祖母の体調が悪くなってからは、「女の子だから」という理由で、必然的に家事の手伝いは私に回ってきた。

当時は、まだプロパンガスが普及していなかった。ご飯はかまどで炊いたし、お風呂は枯れ木を使って沸かした。できて当たり前、できていないときは母に叱られた。

要領が悪く忘れっぽい私は、ご飯を焦がしたり、風呂を沸かすのを忘れたりすることが多かったので、すごい勢いで母に怒鳴られた。

「そんなに怒らんでも」と大声で言い返したかったが、母のすごい迫力に、怖くてただ泣きじゃくり、一言も反論できなかった。
 

初めて母に反抗した日

母が子どもたちに厳しかったのは、母も子どもの頃、明治生まれの祖父から厳しく躾けられたからである。「子どもは親に従うのが当然」の教えを守り、まだ16歳になったばかりなのに祖父の一存で父と結婚し、その後も祖父の教えを疑うことなく生きてきたのだ。

私は中学3年生となり、進路を決める時期がやってきた。両親の前で「准看護師になりたい」と打ち明けた。

急に母の表情が険しくなり、「家政科のある高校に行って、家の中のことをもっとやってもらうつもりでいたし、准看護師になるなんて、要領の悪いお前には無理だわ」と猛反対した。しかし、私は、「准看護師になる」と初めて母に反抗したのである。

母は、「親の言うとおりにしないで反抗するのか」と一層、興奮状態になった。

このとき、普段は何も言わない父が「これからの時代、資格を取ったほうがいいし、本人のやりたい道に進ませたほうがいい」と、私の進路に賛成し、母を説得してくれたのだ。

おかげで私は中学校を卒業後、近くの開業医に住み込み、衛生看護科のある高校に行くことになった。

新しい生活が始まったが、すぐ壁にぶつかった。午前と夜の診察時間には働いて、午後からが学校だったのだが、疲れて、教科書を枕に寝てしまうのだ。勉強は遅れていくばかりであった。

また、相変わらず要領の悪い私は、指示された仕事をするのも遅いので、上司からよく注意された。注意されると「やっぱり、私では無理だわ。母の言った通りに自宅から家政科の高校に通学していればよかった」と弱気になり、自分が決めた道なのに後悔していた。
 

母が応援していてくれる

ある休日、久しぶりに自宅に戻もどった。私が食事の支度を手伝おうとしたら、「疲れているから、しなくていいよ」とやさしい母に驚いてしまった。テーブルには料理がたくさん並べてあり、まるでお客になった気分であった。

母と2人だけになったとき、私はなぜか職場での愚痴を言ってしまったのである。当然、「親の言う通りにしなかったからだわ。これからどうするの」とすごい剣幕でまくし立てられるのではと覚悟した。

しかし、「あんたには、力があるから」と言った母の目には、涙が光っていたのである。

過去にほめられた憶えがなかったので、この一言は衝撃的で、初めて母に認めてもらえた気がした。

不思議とその後は、困難にぶつかっても「母が応援していてくれる」と母の一言が支えになり、前向きな気持ちで取り組むことができた。おかげで、准看護師の資格も無事に取ることができ、最近まで働くことができた。

あの日の母の一言に、感謝している。
 

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