「落語には人生のヒントが詰まっています」。落語作家の小佐田さんは、そう言います。
小佐田定雄(落語作家)
1952年、大阪市生まれ。1977年に故・桂枝雀のために新作落語「幽霊の辻」を書いて以来、落語の新作執筆、改作を行なう。
近年は狂言、文楽、歌舞伎の台本も手がけている。『米朝らくごの舞台裏』(筑摩書房)など著書多数。
「えらいことできましてんと泣きもせず」
落語家で人間国宝だった桂米朝師匠が色紙を頼まれるとよく書いておられた言葉が「一笑一少」。
師はそれに続けて「一怒一老」と記しておられた。
その意味は「人間は一度笑うと一つ若返り、一度怒ると一つ年を取ってしまう」というのが一般的な解釈とのことである。
確かに表情だけを見ても、笑っていると眉が開いて、目や口などの顔のパーツが開いた状態になる。
怒ったり悲しんだりしていると、顔のパーツは鼻を中心にして真ん中にキュッと集まってしまっている。
表情の変化のない能面や文楽人形では、顔を少し上向けると笑っているように見え、俯けると悲しんでいるように見えるという。
つまり、少し上を向いて笑っていると若々しく見え、うつむき加減で怒っていると老けて見えるということなのであろう。
自分のピンチをおもしろがる
「笑う門には福きたる」という言葉がある。
いつもニコニコ笑っていると、幸せなことが起こるという意味なのだが、落語家の桂枝雀師匠はちょっと変わった説を述べていた。
「別に楽しいことがなくてもニコニコしていると、なぜか自然と楽しくなってきます。逆に、悲しいことがなくても泣き真似をしていると、自然と悲しくなってくるものなんです」
つまり、「福」という状況は「笑う」ことによって起こされるという説である。
と言っても人間、いつもニコニコ笑っていられるわけではない。トラブルに巻き込まれないで済めばいいのだが、なかなかそううまくはいかない。たとえそんな事態に陥っても、いつも笑っていることができれば、心穏やかに暮らせるというわけである。
それでは、どのようにしたら笑えるようになるのか? 一言で申し上げると「思い詰めない」ことではなかろうか。
大阪の川柳に「えらいことできましてんと泣きもせず」という川柳がある。大阪の商売人は商売で失敗して大損をしたときでも、「えらいことできましてん」と他人事のように言って平然としているという句である。
失敗した自分を客観的に見て笑っている。
「なんとかなりまっしゃろ。あかんかったらその時のことや」と、ある意味で開き直っているわけだ。たとえ窮地に追い込まれても、その窮状をおもしろがることができたら、笑っていることができるのではなかろうか。
笑うと心に余裕ができる
そんな思考回路を作るためにはどうすればいいか? 一番手軽な方法は落語を聞くこと。
落語に出てくる人間はトラブルに真正面からぶつかって、大まじめに解決するわけでなく、視点をずらして「この状態って、おもしろいんじゃないの」と観察し、より笑える方法で処理していく。その様子をお聞きになってお客さまは、「あほなやっちゃなあ」と笑いながらも「なるほど。そういう見方もあるか」と感心してみたり、「うまいことやりよったな。おもしろい、おもしろい」と共感してくださるわけだ。落語に限らず「笑い」には余裕と冷静さが同居している。
ただ、「笑い」にも「嘲笑」とか「冷笑」とかいう質(たち)の悪い「笑い」も存在する。質のいい「笑い」には優しさと温かさがある。
またまた枝雀師匠のお説を拝借すると、我々のご先祖がマンモスを倒そうと、手槍や石を持って戦っているときは緊張して息を詰めている。マンモスがドターッと倒れると、詰めていた息を吐き出す。その時に歓喜の声が乗って出たのが、人類最初の「笑い声」だと言う説だ。こんな話を師は、まるで見て来たような調子で語ってくれたもので、聞いているこちらは「ほんまかいな?」と思わないでもなかったが、笑いの根本をきちんと押さえている理論だと思う。
つまり、息を詰めず、思い詰めず、余裕を持って暮らしていると「福」がやってくる……という結論にたどりついたところで、既定の字数になったようだ。ほんとは、字数も気にしないで書くのが理想なのかもしれないが、そうすると「福」はやってくるかもしれないが、「仕事」は確実にやってこなくなる。
※本記事は、月刊「PHP」2018年6月号特集《つらいとき、苦しいときこそ 笑って生きよう!》より転載したものです。