第54回PHP賞受賞作
私と父の間には、薄いカーテンのようなものが常にありました。私は父の子ではなく、母の連れ子だったからです。
初めに会ったときは、父のことを、母の友達だと思っていました。何度か食事をして、3人で出かけて。そういったことを繰り返しているうちに、母の友達だった人が、私の「父」になりました。
私の中には当然、違和感がありました。父親ではない人が「父」になるということ。そのことを無条件に受け入れるのは、とても難しいことでした。
私は母の付属品。そういった卑屈な気持ちが、常に心のなかにありました。
私をかわいがるのも、私を怒らないのも、母に嫌われたくないから。父のことを、そんなふうにしか思えませんでした。
距離を取る私に、父もまた踏み込んではきませんでした。私と父は、いつも母を通して接していました。母がいるから何とか暮らしていられたのです。
父と2人きりの生活が始まった
母に乳がんが見つかったのは、私が中学2年生のときでした。
がんが見つかったときにはすでにステージ3で、あっという間にステージ4に進行してしまいました。
日に日に容態が悪くなる母を見舞いながら、
「母が死んだらどうしよう……」
と、私は泣いてばかりでした。
心のどこかで「私には、母しかいない」と思っていたのです。
父は、父であって父ではありません。そのゆるぎない現実が、私をひどく孤独にしました。
母の容態を心配する以上に、母がいなくなった後の、自分のこれからへの不安の方が大きかったのです。
「私を一人にしないで」
何度、病室で泣いたことでしょう。そのたびに母は、「お父さんがいるから大丈夫よ」というのです。
頬がこけ、かすれた声の母に、
「あの人はお父さんじゃない!」
とは言えず、かといって、母の言葉通りに、父を頼りに思うことは無理でした。
母が息を引き取るとき、父は、
「大丈夫だから。大丈夫だから!」
と、意識が消えていく母に、何度も何度も言っていました。
それは、母を安心させるためでもあり、自分自身に言い聞かせているようにも思えました。
母は安心したように、最期は眠るように息を引き取りました。
その姿に、父は本当に母を愛してくれていたのだなと思えました。母は、良い人に出会えたのだと。
ただ、私と父との関係は、接着剤となる母がいなくなったことで、いよいよ微妙なものになりました。
父は母に代わって、不器用ながらも私の世話をしてくれましたが、私はその優しさに、感謝の言葉ひとつ言えませんでした。
やっと、本当の親子になれた
大学2年生の冬、友達と遊びに行ったスキーで足を骨折してしまい、2カ月も入院することになりました。
不自由な入院生活にイライラした私は、父に当たり散らしました。
そんな私に、父は文句ひとつ言わず、仕事があっても毎日、見舞いに来てくれました。
そんな父を病院の誰もが「優しいお父さん」と褒めました。父は本当に献身的で、それは母を看病していたときと同じでした。
私のことも母と同じように思ってくれているのかもしれない、そう思えた出来事でした。
それまで私は、社会人になったら家を出ようとしていましたが、大学を卒業するころには、このまま父と一緒にいようと思えるようになりました。
父は、私が大人になった分だけ歳を取り、風邪をひいては寝込み、足を捻挫しては寝込むようになりました。
母を亡くしてから私の世話をしてくれた父。逆転するように、父の世話が始まりました。
父は、布団の中から私に、
「わしのことはいいから、好きにしなさい」
と、何度も何度も、言いました。
「わしの世話をする義理はない」
そう言いたかったのかもしれません。
父と一緒にいる意味はないと思う気持ちは、もうありませんでした。
あの薄いカーテンのようなものも、いつの間にか、私の心から消えていたのです。
気がつけば、母と過ごした年月よりも、父と過ごした日々の方が長くなっていました。
息を引き取るとき、父は私の手を握にぎって、
「わしの娘、自慢の娘」
と言ってくれました。
私と父は、本当の親子になれていたのだなと、そのとき、しみじみと思えました。
池田かおり(大阪市・会社員・35歳)