第54回PHP賞受賞作
30年ぶりの同窓会。
成績がクラスでビリだった私が教師をしていると言うと、どよめきが起きた。「お前みたいな馬鹿は、答えでも見ながら授業しているんだろう」とまで言われた。
たしかに、私は勉強ができなかった。通信簿を渡した日は、親に説教され、涙を流しながら夕飯を食べるような子どもだった。
力になってやるから、頑張れ
工業高校に進学した年の秋。廊下に、たくさんの求人票が貼ってあった。それを見ながら、初めて自分の将来について考えた。自分はこの高校を卒業して、工業関係の仕事に就くのだろうか、と。
私は、すでに工業高校が合わないことに気づいていたので、何としても大学へ行かなければ、と思った。
翌日、参考書を買いあさり、見たこともない普通科の勉強を始めた。
でも、もともと頭の悪い私にとって、独学で勉強を続けていくことは、容易なことではなかった。参考書の1ページを理解するのに、1週間かかるようなこともあった。
3年生になったとき、担任の先生に、何としても進学したいと訴えた。先生は黙って私の話を聞いた後で、こう言ってくれた。
「先生も力になってやるから、頑張れ」
それからしばらくして、こんなことがあった。
その先生は、よく宿題を出すひとで、ある日、宿題を忘れた生徒があまりに多かったことに怒り、自分達を教室の前に立たせ、1人ずつ叱責していった。
私の番になって、おそるおそる先生の顔を見上げると、先生はこう言った。
「西野、お前の宿題は大学へ行くことだ。お前は、今すぐ家へ帰って勉強しろ」
言われたとおり家に帰り着いてから、「こんなことまでしてもらって、進学できなかったらどうしよう」という考えがよぎった。
そして、どうしたら大学へ行けるようになるか、真剣に考えた末、もうこれしかないと思った。
起きているときは、ずっと勉強しよう。睡眠時間は3時間にしよう。
それから、平日は夜を徹して12時間、休日は20時間、勉強するようになった。
最初は順調だったが、日が経つにつれ、朝起きられなくなった。
疲れがとれず、真っすぐに歩けない。無理に起きて勉強を続けても、途中で寝てしまうようになった。
そんな弛んだ自分に腹がたち、自分に気合いを入れるため、顔を拳で思いっきり殴ったり、押しピンを机の上にばらまき、眠れないようにした。「絶対に先生の期待に応こたえなくては」という思いからだった。
「世界中で、自分よりたくさん勉強している人間っているんかな」
当時、そんなことを思うぐらい、必死だった。
自分は、世界一勉強していると思った。人間の極限まで勉強していると思っていた。
自分が生徒の力になる番だ
しかし、成績は向上しなかった。模擬試験の結果は、3教科で21点しかなかった。
「馬鹿はどこまでいっても馬鹿なんだ。馬鹿は、いくらやってもダメなんだ」
私は自宅で暴れるようになった。教科書をガラスに向けて投げつけ、机はひっくり返し、椅子を床にたたきつけた。
更に、自分の体も傷つけた。自分が馬鹿だから、こうなるんだと思い、その諸悪の根源に、自分の怒りをぶつけるような感じだった。
そして、最後にはもう泣くしかなかった。
「親は、なぜ自分をこんな馬鹿に生んだんだ。だから、どれだけ勉強しても自分は、ダメなんだ」と思った。勉強することもやめた。
そんなとき、担任の先生が、自分を呼んで、話をしてくれた。
「西野、諦めないでやっていれば必ず報われるときが来る。努力は、天才に勝まさるんだぞ」
先生の優しさが、うれしかった。それで、また翌朝まで勉強を続けられるようになった。
しかし、最終的に、進学はできなかった。
高校卒業後、予備校へ行き、初めて普通科の授業を受けた。すると、今までわからなかったことが、まるで雪が溶けて消えていくように分かり、理解できるようになった。
秋の模擬試験で、全国で22番になり、成績優秀者になった。まるで夢でも見ているような感じだった。
翌年、進学が決まったとき、先生に手紙を書いた。先生はすごく喜んでくれた。先生に恩返しできて嬉しかった。この日のために頑張ってきたんだと思えた。
その後、私は先生の影響もあり、教師の道を進んだ。私ができなかった勉強を教えつつ、日々こう思いながら、やってきた。今度は、自分が生徒たちの力になってやる番だ、と。
西野正信(石川県金沢市・教師・63歳)