がんを経験してから17年経とうとする今、エッセイストの岸本葉子さんが学んだ、自分の心との上手な向き合い方とは。
※本記事は、月刊「PHP」2018年2月号特集《逆境が、心を強くする!》より転載したものです。
岸本葉子(エッセイスト)
1961年、神奈川県生まれ。東京大学卒業後、2年間の会社勤務を経て、中国へ留学。その後、文筆業に転じ、エッセイストとして活躍。近著に『50代からのもう悩まない着こなしのコツ』(主婦の友インフォス)、『ひとり上手』(海竜社)など。
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小さな落ち込みはしょっちゅう経験するけれど、割合すぐに立ち直る。性格がどちらかというと楽観的なせいだろう。望まない事態が起きても「ま、こういうことばかりでもないでしょう」とやり過ごせる。
その楽観が通じない出来事が、たまにある。
40歳で経験したがんがそうで、ご存じのかたには「また、その話?」と言われそうで気がひけるが、逆境となるとそれを超えるものを思いつかないので、書かせていただきたい。
心を無理矢理引きずり上げない
私の経験したのは虫垂がんというめずらしいがんで、健康診断で行なう検査にはまず引っかかってこない。がんとわかったとき「早期発見でよかったですね」と言われる段階を過ぎていた。
手術で取ったが再発する可能性もあり、治ったかどうかは、5年過ぎてみないとわからないという。
めずらしいがんなので自分でも調べてみたところ、再発したら進行は早く、効く薬はない、とあるのを読み、胸に何かぶつかったと思うほどの衝撃を受けた。再発したら残りの命は、1年とか1年半といった単位に限られてしまうのか。
治ったかどうかわからないといっても、5年間病院のベッドで寝て待っているわけではない。できる治療をすべてしたからには、生活の場に戻り、仕事を含めたふつうの暮らしを再びはじめなくては。
もうすぐ死ぬかもしれないのに、近所の人と笑って挨拶なんかできるのだろうか、取引先の人と世間話なんてできるのだろうか。
とまどいながらも、退院すれば待ったなしだ。心の半分は再発不安という暗い穴に陥ったままだったが、それでも日々は回ることは回るとわかった。
がんを人に言っていなかったし、旅のエッセイも書く私。雑誌で振られるテーマは、骨董市で器と出合う、至福の温泉宿といった、穴の中の方の自分からすれば「それどころではないもの」が多い……というよりほとんどだ。
が、いざ骨董市に行くと「ん? これよりは、さっきのお店の器の方がよいのでは」とついつい夢中になってしまうと、露天風呂につかれば、五感は嘘をつかないから「ああ、いいお湯」と手足を伸ばし、全身で気持ちよさを味わっている。
そういうとき、穴の中に置いてきたつもりの自分も行動をしている自分と、いつの間にかひとつになっているのだ。
穴から引きずり上げなければと、無理しない。素知らぬ顔で、残り半分の自分でもって、なるべくふだんどおりのことをする。
その方法で気がつけば、再発の可能性があるといわれる5年間を過ぎていた。
半分落ち込んで、半分平常を保つ
それからさらに5年以上経って。がんに関する検査は、たまに受ける程度になっていたが、ある日めずらしく病院から電話があった。
検査の結果がおもわしくなかったので、なるべく早く来るようにと。
そのときの落ち込みは、われながら想像外だった。折り悪しく次の日から旅の取材が予定されていたが、行きたくない。病院で再検査し、結果が出るまで、誰とも会いたくない。
旅の間ずっとふつうの顔で話し、足湯とか温泉名物蒸し料理とかを楽しむなんて、とうてい無理。
がん後の5年間で心が少しは鍛えられたかと思っていたが、これほどまでに弱かったのかと驚いた。がんと告げられたわけではない、疑わしいというだけで、何もかも投げ出したくなろうとは。
しかし「がんの治療をするので」ならまだしも「がんかもしれないので、明日からの出張やめます」なんて、そんな理屈は通らない。
観念して予定どおり出かけ、行ってしまえば、ふつうにしている自分がいた。同行者と笑顔で話し、温泉の蒸気の噴出し口にかごを自分でセットする料理では、かごの載せ方とか蓋をとるタイミングとか、やはり真剣になっていたのである。
強い心を持てなくていい。半分は落ち込んだまま放っておき、後の半分で、あえて素知らぬふうにふるまう。
そうするうち、残る半分もいつしかついてくるものだ。2度目のがん騒動で、私は再びそう学んだ。
幸いそのときの再検査は異常なしで、がんから17回目の春をもうすぐ迎える。